東京パラリンピック柔道(視覚障害)男子100キロ級に出場する松本義和選手(59)=オルソグループ=は、人生を変えてくれた「パラの価値」を信じ、3度目の大会に挑む。新型コロナウイルスの影響で延期された1年、何度も思い返したのはパラリンピックの父、英グットマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」という言葉。「障害を抱えて戦う姿で、不自由なコロナ禍の時代に通じる精神を示す」と意気込む。
 高校1年で緑内障を発症。右目の視力をほぼ失い、左目も日に日に低下した。自分が惨めで周囲に悩みを打ち明けられず、運動や勉強ができなくなると「サボり」を装ってごまかした。いつしか付いたあだ名は「タイマン(怠慢)」だった。
 大学に進む友人や医大生の兄に引け目を感じ、視覚障害者の訓練施設に入る時は悔し涙が出た。20歳で完全に視力を失うと、破れかぶれで車道の真ん中を歩いたことも。24歳で鍼灸(しんきゅう)院を開き、何人も雇う成功を収めても、達成感は得られなかった。
 鬱屈(うっくつ)した思いを変えたのは大阪府立盲学校(当時)で始めた柔道と、38歳で初めて出た2000年のシドニー大会だった。「出るまで18年かかったが、人生観を変えてくれる出会いがあった」と振り返る。
 選手村の海外選手の明るさは新鮮だった。障害を個性として隠さない姿にエネルギーをもらった。車いすの女子選手と「生まれ変わって障害を負うなら車いすと全盲のどっちがいいか」と話し、お互い「今と同じでいい」と笑い合ったとき、障害を素直に受け入れている自分に気付いたという。
 銅メダルを獲得して帰国すると、多くの祝福が自信となり、交際相手にプロポーズする勇気も持てた。4年後のアテネ大会では旗手に。堂々と胸を張って歩いた。
 「もう一回、あの喜びを」の一念で、引退せず挑み続けた。16年かかって出場を決めた東京大会はさらに1年延期された。ぼろぼろの体、練習場所の閉鎖、それでも「しんどいことには慣れっこや」。グットマン博士の言葉を思い、笑い飛ばしてきた。「メダルはたぶん無理、でも必死にもがく。戦う姿を見せる」。 (C)時事通信社