6月24日は米国における生殖に関する健康と権利(リプロダクション・ヘルス・ライツ)が根底から覆された日として歴史に刻まれることになるだろう。Lindsey Baden氏らNew England Journal of Medicineの編集者は「米国合衆国憲法は人工妊娠中絶する権利を付与していない」とした連邦最高裁判所の判決に対し強く非難すると同日付の社説で表明した。

連邦最高裁、中絶権を認めてきたロー判決を破棄

 米国において50年来、女性の中絶権を保護してきたのはロー対ウェイド事件に対する連邦最高裁判決(ロー判決)だ。1973年、妊娠を継続するか否かに関する女性の意思決定はプライバシー権に含まれるとし、中絶禁止を違憲とした。その後も米国内では中絶をめぐる議論は続いており、ロー判決を支持するか否か、中絶に反対する保守派のプロ・ライフと中絶の権利を保護するリベラル派のプロ・チョイスが対立を繰り広げてきた。近年、中絶権をめぐる立場は州によって異なりつつも、ロー判決の下、米国のリプロダクション・ライツは一定の保護を受けていたといえる。

 しかし、ロー判決を根底からゆるがす事態が生じた。きっかけは、ミシシッピ州が2018年に可決した「Gestational Age Act」だ。ロー判決は胎児が母体外での生育が可能になる時点まで、すなわち妊娠24週までの中絶を可能とするものだった。一方、ミシシッピ州が定めたのは妊娠15週以降の中絶を禁止するものだ。ロー判決に照らしこれを違憲とする訴訟を提起したのが「ドブス対ジャクソン女性健康機構訴訟(Dobbs v. Jackson Women's Health Organization)」だ。連邦地方裁と連邦控訴裁は同州法の差し止めを命じたが、同州は最高裁に上告、最高裁は2021年、これを審理の対象にすると表明していた。

 2022年5月にこの連邦最高裁判決草案が米国のニュースサイト「POLITICO」にリークされるという前代未聞の事態を巻き起こしたが、6月24日、ミシシッピ州法を違憲だとする訴えについて連邦最高裁は「違憲ではない」との判断を下した。最高裁判事9人中6人がロー判決を覆す判断に賛成し「合衆国憲法は中絶する権利を付与していない。中絶を規制する権限は国民とその選出議員に戻される」とされた(判決文PDF)。

米国人の生殖に関する自律性を否定しディストピアをつくり出す判決

 NEJM編集者らは、この判決がリプロダクション・ヘルスを阻害するものだとし、科学的根拠に基づき想定される悪影響を次のように提示しつつ、「米国人の生殖に関する自律性を否定しディストピアをつくり出す判決だ」と強く非難した。

 米疾病対策センター(CDC)と国立保健統計センター(NCHS)のデータによると、合法的な人工妊娠中絶による妊産婦死亡率は10万件当たり0.41人であり、全ての妊産婦死亡率(10万件当たり23.8人)と比べ低い。それにもかかわらず、中絶は危険な行為であり、女性の健康を守るために規制強化が必要だというのは、リプロダクション・ヘルスの阻害を正当化する口実にすぎないと断じた。

 さらに、合法的な中絶医療へのアクセスを制限しても、中絶手術数を大幅に減らすことはできず、安全な手術件数が劇的に低下、死亡率を上昇させてしまうことは明らかだ。違法な手術に伴う合併症(卵管の損傷や不妊をもたらす感染症、全身性の感染症、臓器不全、死亡など)により女性の命を危険にさらすことにつながるのは、かつてロー判決が出される以前、現在の60〜70歳代女性たちの経験が物語っていると述べた。

 2022年5月25日に制定されたオクラホマ州法では「生命は受精から始まる」と宣言、2021年9月1日に施行されたテキサス州法では、中絶を実行、援助、教唆した第三者に対し民事訴訟を起こし損害賠償を請求する権限を付与、被告は訴訟費用を負担、原告は根拠のない訴訟を起こしたとしても反訴から免責されるという。さらには性交後の避妊、ホルモン薬による避妊や子宮内避妊具の装着が中絶と同一視され起訴される可能性があり、ミシシッピ州などでは既にそのような措置を検討しているという。

 しかし、これらの適用については医学的見地に基づく妥当性に欠くとNEJMの社説は主張。月経周期にかかわらず1回の性行為で妊娠する確率は3%程度、受精卵の着床後、絨毛性ゴナドトロピンが母体の血中から検出可能なレベルに達するまでにおよそ2週間だ。そして妊娠のおよそ30%は流産となる。したがって、州によっては、そもそも妊娠しない確率が98%に及ぶにもかかわらず、性交後に避妊したことが中絶と見なされ起訴される可能性がある。そして、妊娠していたことを証明または反証する手立てはないのだ。

 「生命は受精から始まる」と宣言した新たな州法は、ロー判決適用前には存在しなかったさらなる影響を生殖医療の現場に及ぼす可能性がある。1978年以降、体外受精の利用は拡大、現在では米国における全出生者の2%が生殖補助医療技術、中でも一般的な体外受精によるものである。体外受精では、通常、1サイクルに多数の卵子が排卵され、受精により多数の胚がつくられるが、可能な限り単一胚移植を施行、未使用胚は将来の移植に備えて凍結するのが一般的だ。未使用胚を移植したい人に提供する養子縁組プログラムもあるが、多くの人はこの選択肢に抵抗があり、未使用胚はしばしば廃棄される。もしこれらの胚が人間の生命であるとされれば、胚の廃棄は違法となるかもしれない。

 米国では富と健康に関し大きな格差が存在するが、格差をさらに悪化させることが容易に想像される。経済的に恵まれた人々は、これまで通り、人工妊娠中絶を可能とする州で中絶治療にアクセスできる一方、アクセスが阻害されている低所得者や有色人種に負担が最も大きくのしかかり、よりいっそうの不公平を招くと述べている。

 こうしたことから、Baden氏らNEJM編集者は「連邦最高裁によるロー判決の破棄は米国の家庭に不利益をもたらすだけでなく、健康、安全、財政、未来を危険にさらすことになる。これらの予測可能な悪影響を考慮し、連邦最高裁判決を強く非難する」と表明している。

編集部