Dr.純子のメディカルサロン

瀬古利彦さんのレジリエンスを解析

 マラソンランナー、瀬古利彦さんの選手時代、生中継される瀬古さんの走りにいつもくぎ付けでした。まるで機械のような走りは人間離れしており、いつも必ず勝つという安心感が私にはありました。

 それだけに、オリンピックという晴れ舞台で敗れたことは衝撃でした。

 1984年のロサンゼルス夏季五輪、私は米国におり瀬古さんが勝利する瞬間をテレビで見届けるつもりでした。ところが終盤、画面に瀬古さんの姿がない。ハラハラしていると、やがて大きく遅れた瀬古さんが映し出されました。

 レースはそのまま終わり、私はしばらくぼうぜんとしていたことを覚えています。多分日本中がそんなふうだったのではないでしょうか。当時の瀬古さんに対する勝利への期待は、期待を超えて確信と言ってもよかったからです。

 背負った期待に応えられなかったことの衝撃は、瀬古さんにとっていかばかりだったでしょうか。ストレスに関する仕事に携わるようになった私は、その衝撃をどのように克服したのか、ご本人に聞いてみたいと常々思っていました。

 瀬古さんに初めてお目にかかったのはジャズクラブです。共通の友人であるピアニスト、山本剛さんのバースデーライブで、瀬古さんはお祝いの歌を歌い、会場を盛り上げました。現役当時のストイックな印象はどこにもなく、明るくオープンな方だと感じました。

 それが縁で、瀬古さんはご家族と一緒に私のライブにも来てくださるようになりました。美恵夫人と私が意気投合すると、瀬古さんとお話しする機会も増え、選手時代のことを少しずつ聞かせてもらえるようになりました。

 「かつての瀬古さんには声を掛けられない雰囲気がありました」と言う私に、瀬古さんは「もともとは今の私が本当の自分なんです。中村(清・早大競走部)監督=故人=と出会って『明るくオープンな部分は出してはいけない』と言われたんです」と理由を話してくれました。「人間味を出してはいけない。ライバルに人間だと思われてはいけない」とも言われていたそうです。

 「友達もいないし、仲間にも調子の悪いところは見せない。弱みを見せちゃいけないんです。ライバルだった宗(茂と猛)さんたちともしゃべっちゃいけない。しゃべると普通の人間だと思われるから。外からは『瀬古は人間離れしていてとても勝てない』と思われないといけなかった」。

 当時、瀬古さんが醸し出していた仙人のような雰囲気は、ある種よろいのようなものだったのかもしれません。しかし、練習は厳しく、つらいこともあったはずです。そのつらさを外へ表現できなければ、それは相当なストレスとなって蓄積されたはずです。膨らんだストレスをどう処理していたのでしょうか。

 「練習に集中することかな。練習がうまくいって勝つというサイクルがしっかり回っていましたから。その代わり、若い頃は外の世界を知らずに生きていました。つまらない男だったですね」

 「食事は中村監督の家で正座して食べ、夕食時には監督の訓話がありました。聖書や仏教の教えを毎日のように聞く生活。たまに実家に帰らせてもらうのですが、また中村監督のところに戻るときがつらい」

 「監督の家に入るとき、敷居を10分くらい眺めては行ったり来たり。しばらくしてから『よし』と覚悟を決めて敷居をまたぎました。その後は勝つことしか考えない。勝つためには何でもやってやろうと思っていました。中村監督への強い信頼がありましたから」

 勝つために自分を抑え、友達も作らずに臨んだオリンピック。それまでの人生すべてを賭けた勝負だったはずで、そこで敗れた時に瀬古さんが受けたストレスは想像も及びません。

 「確かに期待されてはいたけれど、自分ではスタート前に『もうだめだ』と思っていました。練習しすぎで血尿が出て、医師から『走ってはいけない』と言われていましたから」

 「走るな、練習するなと言われても周りには言えない。おふくろにだけは『もうだめだ』と電話で大泣きしました。驚いたおふくろは私が死ぬのではないかと思ったらしい。でも誰かに話すと気が楽になるんですね。話したら『よし、やろう』と思えました」

 「とにかく試合直前に練習できない状態でレースに出たわけですから、自分で『これはだめだ』と覚悟ができていましたね」

 オリンピック閉幕後、マスコミからのバッシングはほとんどなく、「よくやった」とねぎらう論調が多かったそうです。中村監督も「さあ次は結婚だぞ」と瀬古さんの意識の方向を変えてくれ、気持ちがすっと切り替わったといいます。

 つらいときに意識の向きを変えることは、ストレスを乗り切る大事なポイントです。つらい部分に意識を集中してしまうとストレスは軽減されませんが、意識を違う部分にずらすことができると、つらさは確実に和らぎます。特に瀬古さんのように「集中する」ことが得意な人にとって、結婚という全く異なる対象に意識を移したことが大きなレジリエンスになったのかもしれません。

 五輪での敗戦から3カ月、瀬古さんと美恵さんはお見合い結婚しました。美恵夫人は当時を振り返り、「目が印象的だったんですよ。澄んだきれいな目。一つのことをずっとしてきた人が持つ目でしたね」という。瀬古さんの方は、お見合いを5~6回した中で、美恵さんに一目ぼれだったそうです。

 瀬古さんご夫妻は4人の息子さんに恵まれました。ご自宅に伺うとご家族はとても良い雰囲気です。瀬古さんは「いろいろ危機を乗り越えてここまで来ました」と笑います。

 「マラソンも、家族関係も、夫婦関係も、子どもとの関係も、すべて共通するものがあるよね。つらさを踏ん張って次のステージに上ろうとする。我慢しても持ちこたえられないときもあります」

 「みんな私のことを『順風満帆で苦労もなくやってきたんだろう』と思っているかもしれないけれど、そんなことはないです。人に言えないつらいことはいっぱいある」

 瀬古さんはけがをしたり、調子を落としたりしたとき、「妻の明るさに救われた」と言います。「合宿先に手紙をくれたんです」と言って見せてくださった封筒は大量で、「Dear とっちゃん(瀬古さんの愛称)」で始まる便箋には文字がぎっしり並び、ときにはイラストも添えられていました。「私は励ますことが好きなんです」と美恵夫人。瀬古さんにとっては、ご家族がもう一つ大きなレジリエンスパワーなのだと強く感じました。

 「走る修行僧」と呼ばれるほど感情を抑えた選手時代から、ありのままの感情を表現する「人間・瀬古利彦」への変化は、米国の心理学者アブラハム・マズローが主張した「人間の欲求と願望の進化」を思い起こさせます。

 マズローは人間の欲求には5つの段階があると指摘しました。まず生理的欲求。これは人である限り当然の欲求で、食べたり、寝たりしなければ生きていけない。次に安全な場所で過ごしたいという欲求。次に家族や友人を持ちたいという欲求、さらに社会の中で自分が認められたいという欲求へと続きます。

 「社会承認欲求」のために人は自己を抑圧します。ありのままで社会に認められることは難しいからです。トップアスリートであり続けることは、つらさを抑えることの連続でしょう。瀬古さんは、中村監督と二人三脚でマラソン界の超一流に上り詰めました。そして、美恵さんとの結婚を機に本来の明るい自分を解き放ち、最終段階である自己実現の欲求を満たしたと言えます。

 さて、次のステップは2020年東京オリンピック・パラリンピックです。瀬古さんは日本陸連強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダーを務めます。これまでの経験と知識をフル活用し、後輩の進路を照らす指令塔としての活躍が新たに期待されます。マズローが5段階の欲求の上にあると指摘した「自己超越の段階」への挑戦と言えるかもしれません。(文 海原純子)


瀬古利彦(せこ・としひこ)
1956年三重県生まれ。高校時代はインターハイの800m、1,500mで2年連続二冠。早稲田大学進学後に、師の中村清監督の勧めによりマラソンへ転向。戦績は福岡国際、ボストンをはじめ15戦10勝。80年代の日本マラソン界をリードしてきた。エスビー食品で監督を務めたのち、2013年より横浜DeNAランニングクラブ総監督に。現在、日本陸連マラソン強化・戦略プロジェクトリーダーとして、20年東京オリンピック・パラリンピックに向けて日本マラソン界の再興を図っている。

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