こちら診察室 介護の「今」

取り戻した「日課」 第26回

 認知症になると、今までの日課に興味を示さなくなる人がいる。一方で、日課を守ることで、心の安定が得られる人もいる。これは、後者の人の物語。

その男性の日課は、1杯の紅茶から始まる

 ◇太宰を愛読した青年

 特養に入居している昭和一桁生まれの男性は、若い頃、太宰治を愛読した。その頃を知っている家族の話によると、旧制中学の頃、太宰の本を肌身離さずにいつも携え、便所に行くときさえ持ち歩いたという。

 青年は、太宰の何に共鳴したのだろう。柔らかな反抗、気だるき優しさ、ささやくような文体。太宰が繰り出す言葉の一つひとつに、多感に移ろいゆく自分の青き心を重ね合わせたのだろうか。

 ◇生きるのが精いっぱいの時代

 旧制中学が最後の卒業生を送り出したのは太宰が愛人と入水自殺を遂げた翌年の昭和24年(1949年)3月だった。その頃、青年は中学を卒業していた。上の学校に進んでいれば、そのセンセーショナルな死に大いに影響されたかもしれないが、青年は、センチになることを許される環境にはいなかった。

 終戦直後の大混乱期。生きて行くのが精いっぱいの時代だった。文学的な悩みより、命をつなぐことに優先順位を置かざるを得なかった。その頃、青年は太宰の本を持ち歩くことはなくなっていた。

 中学を卒業したものの就職先がない。仕事があっても食べることが難しい時代。街には失業者があふれ、餓死や凍死は日常の風景だった。

 そんな中、青年は闇市に仕事を見つけ、懸命に働いた。すると青年の働きに目をつけた人物が現れた。仮にA氏としておこう。

 ◇商才を発揮する

 A氏は、闇市で古着を売る青年の口上に非凡な商才を直感したのだ。

 「客に満足を売っている」

 戦争をくぐり抜けた老舗の社長だった。この戦後の混乱こそが経営拡大のチャンスだと考え、人材の一本釣りを行っていた。

 A氏の誘いに青年は乗った。A氏は自分の直感に狂いがなかったことを、すぐに知ることになる。仕事を覚えるのが早い。貪欲に勉強もした。客への応対だけではなく、仕入れ先に対する態度も素晴らしかった。老舗の看板にあぐらをかかず、感謝の気持ちが所作にも表れていた。仕入れ値を値切るだけでなく、商い仲間と共に栄えることを心掛けた。

 だまし、だまされるのではなく、取引先を信頼し尊敬した。それはまさに、「人の心を疑ふのは、最も恥づべき悪徳だ」とした、太宰の「走れメロス」のようでもあった。ただ、なれ合いを排除し、「ノォと言うべき時に、はつきりノォと言う」ことを貫いた。太宰は「未帰還の友に」で、「ノォと言える勇氣」を「生活人の強さ」としたが、青年は商売もまた同じだと考えたようだ。

 「未帰還の友に」の初出は、昭和21年。この頃、青年は太宰を読むどころではなかったはずなのだが…。いや、やはり読んでいた。

 ◇日課

 かくして、青年は成功し、30歳になる頃には、A氏の会社のナンバー2になっていた。もはや青年とはいえない男性だったが、太宰ばりの恋をして結婚。子宝にも恵まれた。

 男性の商才には、確かに天賦のものがあったのだろうが、成功の原動力は、商売に関する技量を内省しながら磨いたことにあった。男性は、厳しく自分を律しながら、それを実行した。その端的なものが、「日課」だろう。例えば、結婚後の平均的な1日の朝。

 朝の4時前に決まって起床した。前夜に深酒をしても変わらなかった。寝ている家人を起こさないように、そっと寝室から抜け出す。仕事部屋に着いたら、前夜のうちに用意しておいた魔法瓶のお湯で紅茶を入れ、たばこをくゆらす。机に向かうのがきっかり4時。それから6時半までの2時間半、昨日の出来事を大学ノートにつづっていく。書くということは、「言語」にするということ。顧客、取引先、部下との関わり方など、自分の行動の反省点が、文字という言葉で明らかになっていく。

 6時半からは、顔を洗い、ひげをそり、髪を整え、のりの利いたワイシャツに腕を通す。7時からは家族で食事。7時半に家を出て、8時に会社の自分の席に着く。新聞3紙にさっと目を通し、きょうの予定を書いた黒板を、腕を組み眺めていると8時半。始業である。

 男性は、平日の朝はそのようにして過ごし、休日は家族のために時間を割いた。そんな日課を繰り返し、70歳まで働いた。

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