こちら診察室 介護の「今」

取り戻した「日課」 第26回

 ◇定年後も続く日課

 やがて伴侶が他界し、男性は一人暮らしを始めた。

 久しぶりに帰郷した息子に、男性は毎日の暮らしをこう語った。

 「朝は4時前に起きる。これは、若い頃から変わらない。起きたらまずは紅茶だ。で、たばこを一服すれば、すっかり目が覚める。医者から『たばこをやめろ』と言われているが、この年まで吸ってきたんだ。やめる方が体に悪い。4時ピッタリに机に向かう。働いていた頃は、昨日の仕事の振り返りを2時間半かけて大学ノートにつづったものだ。でも今じゃ、普通に書いたら30分程度でネタがなくなる。まあ、時間だけはたっぷりあるから、倍の時間をかけてゆっくりと日記を書くことにしている。書き上がる頃には新聞が来ているのでゆっくり読む」

 男性は、続ける。

 「すると、6時半だ。顔を洗い、ひげをそり、かなり薄くなった髪を、それなりに整える。もう、白いワイシャツは必要ないが、それでも、クリーニング屋でのりをピシリと利かした気に入りのシャツに袖を通す。7時からは食事だ。それからは、太宰でも読みながら、ゆっくり1日を過ごすのさ」

 認知症になった男性

 月日は流れ、男性は認知症になった。

 離れて暮らす子どもたちは協議して、老人ホームに父親を入れた。やがて、特養に住む場所を移すが、手の付けられないほど、乱暴な入居者となった。

 「こんな所には居られない」と、何度脱走を試みたことか。それでも職員は根気良く、男性の世話をした。

 どのようなケアを行えばよいのか—。それを見つけるための会議が開かれることになった。息子はその会議に臨む1週間ほど前に、特養の相談員に対し、父親の人生や考え方、人柄、家族との関係、元気な頃の暮らし方を伝えた。

 会議の日、相談員は、ある提案をした。それは、特養の中で父の日課を再現しようというものだった。

 起床時間よりも早く起き、暗いうちから紅茶を飲む…。会議ではその提案が受け入れられ、さっそくその日課が実施されることになった。

 息子が後日訪問すると、父親は、別人、いや、以前のような父親に変わっていた。昼下がりのひととき、お気に入りのシャツにネクタイを締めて、優雅に紅茶を飲んでいる。太宰の本に目をやりながら。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。

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