こちら診察室 介護の「今」

情報不足が招く不利益 第29回


図書館での調べ物とネット検索では、得られる情報に相違がある

 80代になったばかりの男性に、「病理検査をしないと、確かなことは言えないのですが」と前置きした上で、「甲状腺がんの未分化がんかもしれない」と医師は告げた。

 ◇「だから」の響き

 医師は、「だから、なるべく早く検査をしましょう」と付け加えた。そう言われても、それが深刻なのかどうかは男性には分からない。

 「その未分化がんだったとしたらどうなるんでしょうか?」

 「だから検査を」

 医者は、それしか説明しない。でも、「甲状腺未分化がんの疑い」に加え「だから検査を」の言葉の響きは、男性を不安の渦に巻き込むには十分過ぎた。

 ◇情報の非対称性

 「情報の非対称性」という言葉がある。ビジネスの世界で使われる言葉であり、市場で取引される商品やサービスについて、商品やサービスの供給者が消費者に比べて情報を多く持っているなどの状態をいう。情報の非対称性が大きくなると、消費者は商品の購入を控えるようになったり、市場取引が円滑に行われなくなったりするといわれる。

 医療や介護の分野においても、専門職と利用者(患者)の関係に当てはめることができるだろう。つまり、情報の非対称性を放置すると、医療や介護のサービスがそれを本当に必要とする利用者(患者)に届きにくくなり、利用者にとって不利益になる選択を行うことにつながる。

 ◇情報不足を埋めるために

 男性と医師のケースの場合、甲状腺がんについての知識は、質と量ともに圧倒的な差があることは明白だ。情報の非対称性を縮めるためには、医師が患者の身になった、分かりやすい情報提供を行う必要がある。しかし、それができる医師は多くないようだ。

 患者である男性は、医者の説明の足りなさに不安を募らせながら、病院からの帰りに図書館に寄り、甲状腺がんを調べた。

 ◇青ざめた男性

 調べると、甲状腺がんの種類には、乳頭がん、濾胞(ろほう)がん、髄様がん、未分化がん、悪性リンパ腫などがあることが分かった。そして、未分化がんの解説に触れた男性は青ざめた。

 ─分化が進んでいないがんは、活発に増殖する傾向があり、進行が早いのが特徴で、周囲の臓器への浸潤(隣接する組織内に広がること)や、遠くの臓器への転移を起こしやすい悪性のがんである─

 幸か不幸か、男性には情報を調べる力があった。ただし、その力は医療の専門知識に基づくものではない。入手できる情報の質と量には限りがある。

 男性は、未分化がんがおしなべて予後不良であることを知り、不安の渦にますますのみ込まれることになった。

 ◇「断定形」での問い掛け

 男性は、介護保険の利用者である。担当のケアマネジャーが男性宅を訪れたのは、男性が病院と図書館に行った2日後だった。

 ケアマネジャーは会ってすぐに、いつもと様子が違うことを直感した。

 普段なら、「体調がすぐれないのですか?」とか、「ご心配なことがおありなのでしょうか?」などと疑問形で問い掛けるのだが、今までにない雰囲気に、「何かご心配のことがおありなのですね!」と、断定形でケアマネジャーは問い掛けた。

 「あ、いや…」

 男性は、一瞬否定しようとしたが、そのまま黙り込んでしまった。

 ◇沈黙の後に

 ケアマネジャーは、男性が口を開くのを待ち続けた。どれくらい沈黙が続いたのだろう。やがて男性は、一連の出来事をぽつりぽつりと語った。その中で、未分化がんの予後の悪さが男性の気持ちに暗い影を落としていた。

 「それはご心配ですね」

 ケアマネジャーは心の底からそう言った。その言葉は、男性の心の底に深く響いた。それを境に男性は、自分の気持ちを語り始め、やがて言った。

 「だから、検査を断ろうと思っていてね」

 ◇不利益な選択

 それまで男性は、あらゆる検査を、むしろ進んで受けて来た。治療にも積極的であり、リスクのある治療であっても、治る確率が少しでも高い方法を選んできた。

 しかし、今回は「検査を断ろう」という不利益な選択をしようとしているのだ。未分化がんであるかどうかかかわらず、必要な治療が受けられない恐れが生じている。

 ケアマネジャーは思わず「○○さん(利用者の名前)らしくないですね」と言ってしまった。

 それからまた沈黙の時間が続いた後、「いや、あの医者の下では検査を受けたくないだけさ」と言い直した。

 「どこか、いい病院を紹介してくれないだろうか」

 ◇ネット検索

 男性は、図書館で甲状腺の機能や病気のことを自力で調べたほどの力がある。しかし、ケアマネジャーと違う点が二つあった。一つは、地域の医療職とのつながり、もう一つは、インターネット利用についてである。ちなみに、男性の自宅にインターネットの環境はない。スマートフォンも持っていない。

 ケアマネジャーは、セカンドオピニオンを提案する前に、まずはインターネットによる検索を行ってみることにした。

 甲状腺専門の病院やクリニックは、ケアマネジャーが思っていた以上に多かった。幾つかの医療機関のホームページには、甲状腺がんについての説明が掲載されていた。病期、治療法を細かく説明し、病院の治療実績や治療方針を打ち出しているところもある。

 例えば、分化がんなどの10年生存率と未分化がんの1年生存率の具体的な数値を示した後、「1年生存率がかなり厳しい未分化がんについても、手術を含めた積極的な治療を提案しています」といった具合だ。
 日本甲状腺学会の認定専門医施設を調べることもできる。さらには、全国および都道府県ごとの治療実績数の比較ができるサイトもある。そして、この地域には全国においてもかなり上位の治療実績を誇る病院があることも分かった。

 次にケアマネジャーは、仕事仲間の看護師に病院の評判をヒアリングし、その結果を持って男性宅を訪れた。

 ケアマネジャーは、未分化がんの1年生存率以外の資料を印刷し、男性に手渡した。

 ◇検査の結果は

 1週間後、「検査に行ったよ」との報告をケアマネジャーは受けた。それからさらに1週間ほどして、「細胞検査(穿刺=せんし=吸引細胞診)の結果が出た」との連絡が入った。受話器から聞こえる男性の声は弾んでいた。

 「真っ白の判定で、腫瘍は良性!」

 「良かったですね」

 「何と、手術も必要ないらしくてね。先生がね、あと10年は保証しますよと言ってくれたよ。私はそんなに生きなくてもいいけどね」

 ◇情報サポートの必要性

 饒舌(じょうぜつ)だった。それだけに、検査結果が出るまでの不安の大きさが想像できた。同時に、ケアマネジャーは情報サポートの必要性を痛感した。

 「前の病院の医者はどこに目を付けていたのかねえ」

 「いえいえ、あの先生もとても立派な方だそうですよ」

 実は、前の病院の医師も日本甲状腺学会の認定専門医だった。

 そうフォローするケアマネジャーに、「ふ〜ん、まあ、相性があるからね」と応じる男性であった。(了)


 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。

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