Dr.純子のメディカルサロン

「こんなところに日本人」
~ラオスで医療支援~ フレンズJAPAN代表 赤尾和美さんに聞く

 ラオスという国名にはなじみがあるものの、場所はどこと聞かれたら答えられる人もそう多くはないかもしれません。そのラオスで10年間、さらにそれ以前にカンボジアで15年、合わせて25年間医療支援を続け、社会貢献支援財団から表彰された赤尾和美さんの活動をご紹介したいと思います。赤尾さんとは今年3月にベトナムで行われた支援活動報告会でお会いして、数日間一緒に現地視察を行い、その活動と人柄を知りました。6月末に横浜で行われた国際学会に参加するため、一時帰国した赤尾さんに話を伺いました。

(聞き手・文 海原純子)

 海原 赤尾さんがなぜラオスで活動をしているのか知りたいと思っていたところ、2015年に出演されたテレビ番組「こんなところに日本人」の番組の録画がたまたまSNSにアップされていて拝見しました。赤尾さんは1985年に看護師になり、大学病院に勤務されていたんですよね。

 ◇点滴の管にアリぎっしり

赤尾和美さん(右)

 赤尾 そうです。ラオスに至るまでの話をすると、とても長くなってしまうのですが、大学病院勤務の後、結婚してハワイで看護師として仕事をしていた36歳の時、看護学校の恩師から「カンボジアで看護師の育成をしたいので、その基礎をつくるために2カ月だけ手伝ってくれ」と言われました。夫と相談して2カ月だけの期間限定だし、と思いカンボジアに出掛けました。行ってみると、カンボジアの病院の現状はひどい状況でした。何しろ点滴の管が真っ黒で一体何だろうと思ったら管にぎっしりアリがたかっているんです。薬が不足し、機材も足りていない。感染症も多く、10万人ものエイズ患者がいて悲惨な状況でした。

 2カ月の期間を終えハワイに帰りましたが、カンボジアのことが頭から離れなくなりました。「どうしてもあそこに戻りたい」という気持ちが強くなりカンボジアで働こうと思い、NPO団体が運営していた小児科病院で1999年から働くことにしました。働き始めて2年目。夫との関係も見直さなければと思い、離婚してカンボジアに移住することに決めました。ここでは訪問看護をしたり、150人の看護師を育成したりして、2013年に任務を終えました。その後、新しいプロジェクトとしてラオスに小児病院を立ち上げるために支援を行うことになりました。今はラオスで活動しています。

訪問診療では栄養指導や衛生面の指導も

 ◇離婚して移住という決断

 海原 医療支援をするために離婚して移住するというのは一言では言えない葛藤があったと思います。「この地に住む」という決断をしたからこそできるのが、不便な土地で行う訪問看護だと思いますが、赤尾さんは精力的に訪問看護をしています。その理由は何でしょうか。

 赤尾 訪問看護が患者さんの生活を一番見ることができる場です。カンボジアで仕事していた時、エイズで一命を取り留めた少女がいて、やっと退院できることになりました。私とも仲良しになり妹のように思え、生活上の注意をした上で喜んで退院しました。でも、しばらくして訪問したら家にいないんです。「どうしたのか」と家族に尋ねたら、「退院して1週間で苦しみながら死んだ」と。ショックでした。「どうして連絡しなかったか」と聞いたところ、「今度入院したらうちは破産する」と。つらかったです。貧しいんです。治療費が払えない。その時、とにかく頻繁に訪問して実情を確認しなくては、と思いました。

 ◇不便の中にある心地良さに気づく

 海原 そうなんですね。ラオスも訪問治療はへき地に行くことも多くて山岳地帯を回ったり川下りをしたりしながらで体力をかなり使うのではないですか。車がボロボロになった写真を拝見しました。水道も電気もないところも多いそうですが、不便な場所にいて不自由な思いなどもあると思います。 

メンタル面のサポートも

 赤尾 よく聞かれるのが「一番大変なこと、不便なことは何ですか?」ということなのですが、大変なことや不便なことはいっぱいあるのですが、それが苦痛と感じなかったことが、25年も東南アジアで生活をしてきている理由かなと思います。これを私は「不便の心地良さ」だと思っています。

 1999年のカンボジアでの2カ月間の医療ボランティアでは、生活の中にあった五感の刺激で目からうろこ。たまらない快感で、数カ月後にはカンボジアへ移住していました。臭いもの、汚いものが隠されていた世界にいる自分に気が付かされたのかもしれないです。

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