一流の流儀 「信念のリーダー」小久保 裕紀WBC2017侍ジャパン代表監督

(第11回)心の中で生き続ける母
残された時間を2人で

引退セレモニーが終わり、母に迎えられる小久保さん

 2012年のシーズン後、小久保裕紀さんは現役を引退した。引退セレモニーの時、グラウンドで涙を拭い続けていた女性がいた。母の利子さんである。薬剤師をしながら女手一つで2人の息子を育て上げた。小久保さんはあいさつで、「これだけ強い体に産んでもらい、ここまで育ててもらい、野球との出合いを与えてくれた母親に感謝します。お母さん、ありがとう」と語り掛けると、利子さんはタオルにまた顔をうずめた。

 小久保さんが6歳の時、利子さんは夫と離婚。和歌山市の実家に戻り、少年野球クラブに息子を入れる。入部当初、練習のあまりの厳しさに小久保さんが「辞めたい」と泣いたことが一度だけあった。

 「これを言ったらおしまいという言葉があると思うのですが、『勝手に離婚しやがって。嫌な野球をやらせるなら、親父のところに戻せ』と悪態をつきました。小学1年生の頃の記憶はあまりないのですが、母が傷つくだろうなと思いながら言ったから、覚えているのですかね」

 しかし、利子さんはひるむことなく、「男が一度やると決めたことは最後までやり通せ」と言い、小久保さんを強引に車に乗せてグラウンドに引っ張って行った。目の前で自分の息子が叱責され、殴られていても、「クラブに入れさせたのは私。知らない野球のことに口は出しません」と、ぐっとこらえていたそうだ。決してでしゃばらない利子さんがグラウンドまで降りて来て息子の姿を見るのは、小久保さんのプロ野球生活19年間でわずか2回。セレモニーの日は2度目のことだった。

 昨年、最愛の母の最後をみとった。仕事が大好きで、薬局を訪れた人に熱心に薬の説明をしたという利子さんが末期がんと分かった時に、小久保さんは「もう仕事をやめたら」と忠告した。利子さんの返事は「私の生きがいを取らないで」。「それなら死ぬまで現場に立っていたら、いいのではないだろうか」と思ったという。ただ、「体調があまり良くない」と言われてからは積極的に和歌山に帰り、時間をつくっては、2人で頻繁に温泉などに旅をし、看病もした。

 「あんたね、指導者も経験しないで、就任2年でいきなり世界一になるとかね。そんなに人生甘くは無いわよ」

母への熱い思いを語る小久保さん

 プレミアの韓国戦で侍ジャパンが負けた時には、こう諭された。海援隊の武田鉄矢さんが歌った「母に捧げるバラード」の歌詞の一説を思い起こさせる言葉だ。「世間からバッシングされているのに、母からもバッシングされました」と小久保さんは笑った。有名人へのバッシングは、時として家族に及ぶこともある。小久保さんが「和歌山でも大変だったやろ」と気遣うと、「誰も何も言わんよ」。「絶対にうそをついている、心配をかけないようにしているのだなあ」と思ったという。

 小久保親子はがんという病を心の準備と思い出をつくる時間に使った。「よく会話もして、思い出がいっぱいできました。最初に旅行した時は照れくさかったのですが、一緒に行くうちに慣れました。年内は持たないと言われていましたが、WBCが終わるのを待つように翌年の3月31日に亡くなりました。悲しいというよりも、『ここまでよく頑張ったね』と感じました」

 利子さんが「エンディングノートはここにあるよ」と言った場所には、銀行の通帳や印鑑などすべてそろっていた。「変な話ですが、母が生きていた時より、この事の方がよく思い出します」。小久保さんは毎朝、利子さんの仏壇に手を合わせ、「きょうも行って来ます」と祈る。「亡くなった人が心の中で生きるということは、こういうことかなあと思います」(ジャーナリスト/横井弘海)

一流の流儀 「信念のリーダー」小久保 裕紀WBC2017侍ジャパン代表監督