こちら診察室 介護の「今」

老女と老犬の物語 第28回

  地方の温泉町の古びたアパートで、老いた女性が老犬のペロと一緒に暮らしている。
  女性は元芸者。部屋の壁には、長袋にくるまれた三味線がひっそりと掛けられている。

雪降る夜。ケアマネジャーとヘルパーは、病院から抜け出した老女を探した

 ◇三味線とヘルパー

 女性は、介護保険サービスの利用者だ。主に利用するのは訪問ヘルパーを週3回。何人かのヘルパーが入れ替わり、立ち替わり、やって来る。

 初めてのヘルパーは三味線を見ると、「弾けるんですか!?」と決まって尋ねる。その都度、女性は「まあ」とぶっきらぼうに返事をする。ヘルパーは、不機嫌な気持ちを察することなしに、「今度弾いてくれますか!」と続ける。

 その三味線は、女性の人生の酸いも甘いも知っている。その音色を、「いちげんの客」のようなヘルパーに聴かせようとは思わない。「あんたの前では弾かないよ」と言いたいが、我慢する。

  ヘルパーの助けがなければ、「きっと老人ホーム行きだろうな」とも思っている。そうなれば、ペロはどうなってしまうのか。だから、「もう弾けないね」とだけ返す。それが、いつもの儀式だった。

  ◇お気に入りのヘルパー

  ところが、無粋な質問を重ねなかったヘルパーがいた。

  他のヘルパーよりも口数も手数も少なく、どちらかといえば、仕事の要領も悪い。でも、そのヘルパーは女性のお気に入りになった。

 芸者時代には、つらいことがいろいろあった。語り尽くせぬほどにたくさんあった。その愚痴を受け止めてくれる友がいた。しかし、その友はもういない。

 今だって、つらいことはたくさんある。女性はそのヘルパーに、先にあの世に行った友に似たぬくもりを感じていた。

 少し気難しいペロが、老骨をむち打ち尻尾を振るのは、散歩に連れ出してくれるボランティアとそのヘルパー、そしてケアマネジャーの3人だけだ。

 ◇入院拒否

 芸者時代の不摂生の付けが回ってきたのだろうか、女性の体調はすぐれない。

 2年前、医者の勧めを断り、ペロのために入院を拒否したことがあった。

 「保健所に引き取られたら、おしまいだよ」という話を聞いたことがあった。だから、どんなことがあってもペロを残して入院はできなかった。そのことを理解してくれたのは、ケアマネジャーだった。

 訪問診療医や訪問看護師を見つけてくれ、何とか入院せずに乗り切った。それ以来、女性はケアマネジャーには信頼を寄せている。

 とはいえ、入院の拒否を繰り返すのが無理な体になっていることを、女性はうすうす感じていた。

 ◇動物愛護法と殺処分

 動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)の第35条には、「都道府県等その他政令で定める市(特別区を含む)は、犬又は猫の引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない」とある。

 環境省がまとめている「動物愛護管理行政事務提要(2022年度版)」によると、22年度の犬と猫の引き取り数は5万2792頭で、そのうち、1万1886頭が殺処分され、殺処分率は22.5%に上っている。12年度が77.3%であったから、殺処分率は大きく減ったものの、いまだゼロにはなっていない。

 ちなみに、東京都は「犬については16年度から、猫については18年度から殺処分ゼロを達成」としているが、それは「動物福祉等の観点から行ったものおよび引き取り・収容後に死亡したものを除く」ものであり、環境省の基準でいえば、殺処分ゼロではない。また、殺処分を減らすために保健所などが引き取りを渋り、動物愛護団体などが引き取りを余儀なくされているという事実もあるようだ。

 犬や猫が高齢で譲渡先が見つからない場合も、殺処分の対象になることがあり、老犬ペロも行政に引き取られれば、殺処分の対象となる恐れは否めない。

 ◇吉報、そして…

 ペロをなでながらこたつでうとうととしていた女性の下に、ケアマネジャーが知らせを持ってやって来た。しばらく家を空けることになっても、ペロの世話を引き受けてくれるボランティアが見つかったというのだ。吉報だった。そして数カ月が過ぎた。

 女性が暮らす温泉町は北国にあった。どんよりした空から、大きな雪の粒が落ちてくる季節になった。その空模様にも似て、体調がすぐれない日が続いた。ケアマネジャーにペロの世話についての確認をとり、女性は入院を決断した。

 ◇事件

 女性の入院から数日後の夜、ケアマネジャーに電話があった。女性が入院している病院からだった。 「女性が病院からいなくなった」

 ケアマネジャーに心当たりはなかった。ヘルパーの事務所を通じ、担当のヘルパーに連絡を取ったが、誰にも心当たりはないようだ。取りあえず、ケアマネジャーは病院に急いだ。

 病院には、女性が以前に褒めていたヘルパーがすでに来て、看護師と話し込んでいた。ヘルパーは言った。

 「夜のお薬を飲ませようと看護師さんがお部屋を訪ねたら、ベッドにいらっしゃらなかったそうなんです。私、捜してきます」

 「一緒に行きましょう」

 2人は顔を見合わせ、「ペロ!」と同時に声を出した。

 今、ペロは自宅にはいない。でもおそらく、病院を脱走するほどの精神状態に陥った女性には、その事実の認識はないだろう。せん妄だろうか?

 せん妄とは、脱水、貧血、炎症、服薬などが引き金になり突然発生する一過性の意識障害である。

 ◇捜索

 2人には、ペロに会うために自宅に向かう女性の姿が想像できた。念のために警察に連絡を入れた後、ケアマネジャーとヘルパーは車に同乗して、病院から女性の自宅に向かう道をたどってみることにした。

 雪の降る夜だった。車のヘッドライトが降る雪、積もった雪をまぶしく照らす。10分ほど走っただろうか。夜道を歩く女性の姿をライトが捕まえた。

 ヘルパーはすぐに車を降り、「○○さん!」と女性の名を呼び駆け寄った。

 「冷えるねえ、今夜は。ペロが寒いんじゃないかなと思ってね」

 「ペロちゃんが心配だったんですね」

 ケアマネジャーも車を降り、2人の下に歩み寄る。ヘルパーは、女性の服に降り積もった雪を優しく落としていた。「良かった、本当に良かった」と声を掛けるヘルパーの目は涙でぬれていた。
「どうしたのさ、泣いたりして。何か悲しいことあったのかい?」
 女性は、ヘルパーにそう語りかけた。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。


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