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歴史の生き証人 第23回

 昭和一桁世代の全ての人が、今年90歳以上となる。

 総務省統計局によると、2023年9月15日現在の日本の総人口は1億2334万人。そのうち90歳以上は273万人で、総人口に占める割合は2.2%である。65歳以上が総人口に占める割合、いわゆる高齢化率が29.1%であるのに比べれば、90歳以上まで生きる人の割合はそれほど多くはない。ちなみに、100歳以上の割合は0.1%。昭和一桁世代の話を聞くために残された時間は短い。

今なお、米軍基地が日本には点在する

今なお、米軍基地が日本には点在する

 ◇戦後を生きたある女性の物語

 これは、介護現場で取材中に出会った一人の女性利用者が語ってくれた、自分が看護婦(看護師)になった物語。

 そこには生々しい戦後史があった。

 女性は、昭和4年(1929年)生まれだ。占領下の日本のある地方都市にあった占領軍専用のホテルの外人専用クラブで、米軍の将校に春を売っていたという。

 ◇恋に落ちた女性

 そんなある日、女性は暴力を振るう米国人の将校を相手にした。逃げ惑う女性を救ってくれたのは、日本人のボーイの青年だった。

 女性は、その青年と恋に落ちた。青年は女性の商売を一切問わず、甘いプロポーズの言葉を贈った。女性は外人相手の商売をやめ、結婚に備えた。けれども青年の死によって結婚はかなわなかった。

 ◇青年の死と命の値段

 プロポーズから半年後、青年は真っ暗な夜道で、酔いどれの占領軍兵士数人にめった打ちにされ、絶命したのだ。

 日本の警察の捜査は、「占領軍の壁」に拒まれた。結局、犯人は挙がらず、青年の家族に数万円が支払われて、一度は終わりにさせられた。ただ、昭和26年に日米安全保障条約が調印され、その付属協定として翌年に「日米行政協定」が調印されると事態は少し変わる。家族は賠償金を請求。その結果、見舞金十数万円が支払われることになったのだ。

 ちなみに当時の勤労者世帯の月収は約2万円(総務庁家計調査)。青年の命の値段は、世帯年収にも満たないことになる。

 ◇見舞金を払ったのは日本政府

 この見舞金は、米軍ではなく日本政府により支払われたものだった。理由は、「駐留軍に責任があるものと国が判定し慰謝料の請求をしたが、米国当局との協議の結果、駐留軍の責に帰することを得ない事由により慰謝料の支給を得られず、かつ国が救済の必要を認めたから」というものだった。

 つまり、「犯人を特定できないから米軍は補償をしてくれないので、日本政府が代わりに支払います」ということになったのだ。刑事事件だけではない。占領軍の兵士が起こした日本人を死傷させた交通事故や誤射などのうちのかなりの数が、そのようにして幕引きされてきた。

 60年安保の昭和35年に、「日米行政協定」は「日米地位協定」として継承され現在に至るが、日本に駐留する米国軍とその兵士らによる刑事・民事責任を含め、種々の問題は現在も積み残されている。

 ◇父親の帰還

 女性の物語に話を戻す。愛する人との未来を絶たれ、悲嘆にくれていた女性に朗報が届いた。シベリアに抑留されていた父親が帰って来るのだ。

 父親は、出征したときとは別人のように痩せ細っていた。しかし、永らえた命、懐かしの故郷、家族との再会…。そうした喜びの渦の中で、目はうれしさに満ちていた。しかも、抑留中に知り合った同郷の人が役員を務めていた会社に雇用されることになったという。その会社は幸いにも空襲や占領軍による接収を免れ、さらには朝鮮戦争に伴う朝鮮特需を追い風にして、商いを大きく伸ばしているらしい。

 父親は長女である女性に、「ずいぶんと苦労をかけた。これからは家のことは気にせず、自分の好きなことをしなさい」と言った。

 女性は、彼がいればどんなにかうれしい言葉だっただろうと思いながらも、自分がやりたいことは何かを考えてみることにした。

 ◇看護婦になろうと決意した理由

 数年前の出来事が、ふいに女性の脳裏に浮かんだ。それは、性病探索班の「パンパン狩り」で、「キャッチ・ジープ」に捕獲されたときの場面だった。

 屈辱の性病検査を震えながら待っている女性に看護婦が「あなた、まだ未成年でしょ」と声を掛け、「私がMP(米軍の憲兵)の気をそらすから逃げなさい」と言ってくれた場面がよみがえった。その時、「何てすてきな仕事なのだろう」と憧れを抱いたものだった。

 「そうだ。看護婦になろう!」

 女性は自分の将来の姿をそのように選び、看護婦への道を歩き始めた。

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