こちら診察室 介護の「今」
影を潜めた悪態 第25回
農薬散布のためのエンジン式噴霧器の前で87歳の男性が腕を組んでいる。はて? エンジンのかけ方を忘れてしまったのだ。燃料もオイルも入っている。始動スイッチはONになっている。ところがリコイルスターター(手動でエンジンを始動する装置)のひもを引っ張ってもエンジンがかからない。スロットルレバー(エンジンの出力を調整するための絞り弁)とチョークレバー(空気の絞り弁)の位置に問題がありそうだが、さてどうだったか…。腕組みをしたまま男性は首をかしげた。
納屋に置かれた噴霧器。男性はエンジンのかけ方を失念した
◇妻の悪態
その様子を5歳年下の妻が見ていた。
「なんたら、また忘れたな!?」
「まんず、機械の調子が悪いようだ」
「調子が悪いのは、おめえの頭じゃ」
このところ、めっきり物忘れが多くなった夫に向かって、妻は容赦のない言葉を浴びせる。数年前なら、そんな悪態を許すわけはなかったのだが、今は頭にがたがきて、反抗する気力もうせ気味なのだ。
「分かんね、分かんね(駄目だ、駄目だ)。機械屋に電話しろ〜」
妻は夫に指図するようにもなってきた。夫は返事をせずに、機械屋の番号を調べようと有線放送電話の電話帳を開いた。ところが今度は機械屋の名前が分からない。
「はよ、電話しろ〜、日が暮れる〜」
「…」
「なしてこげな頭さ、なったかな〜」
夫に十分に聞こえるような大声で、妻は憎まれ口を続けるのだった。
◇消えた妻の夢
かつて妻には夢があった。目の上のこぶであったしゅうとめもやっと逝き、「夫が定年退職したら、専業農家として事業を拡大しよう」という夢だった。ところが、夫は定年を待ってましたとばかりに、農協の役員を務めたり、神社の氏子総代を請け負ったりして、農業に専念する様子をみじんも見せないのだ。
まあ、そのうちに農協や神社の務めもなくなるだろうと思ってもみた。ところが、農協の役員を辞すと、今度は遺族会の世話役を引き受けたり、氏子総代を後進に譲ると自治会の役員になったりで、とにかく出歩く。
◇悪態の理由
さすがに80歳を超えた頃から、外向きの務めはなくなっていったが、今度は、体を動かさないからか、社会的な交流が減ったからか、ぼけが進んだのだ。
ついに夫は農業専従となったものの、その時には頭ががたがたで、片手間仕事に農業をやっていた頃よりも働きが落ちてしまった。そんなこんなで、妻の事業拡大の夢は露と消え、その腹いせもあり、夫に悪態をつくようになったのだった。
◇要介護認定を受ける
そんな状態が数年続いた。やがて、夫は80代の半ばを、妻も80の峠を越え、ついに稲作は、業者に作業を委託することにした。ただ、牛の繁殖と野菜畑は従来通り続けた。妻も腰痛持ちで、次第に腰が曲がってきた。
そんなある日、夫が畑作業中に芋づるに足を引っ掛けて転倒し、身動きできなくなってしまった。妻は息子夫婦から持たされていた携帯電話で救急車を呼んだ。診察の結果は大腿骨頸部(だいたいこつけいぶ)骨折だった。夫はそのまま入院して手術。手術から2週間ほどで、リハビリテーションの専門病院に転院した。
病院から勧められるままに介護保険の要介護認定を申請し、退院が1週間後に迫った頃に認定の結果が出た。
病院から、ケアマネジャーを紹介された。
◇冗舌な夫に驚く
ケアマネジャーとの面談は、病院の相談室で行われた。
ケアマネジャーは女性だった。丁寧なあいさつを受けた。あいさつの中でケアマネジャーは、自分は何をする職種なのかを説明した。
どうやら、いろいろなことを相談しながら、安心して暮らせる方法を一緒に考えていく人らしい。妻は、夫の扱いに困っていたので、味方になってくれそうだと思った。
夫は姿勢を正してケアマネジャー話を聞いている。妻は「どうせ分かっちゃいないんだから」と思っていた。
それなのに、ケアマネジャーは夫に向かって質問することが多い。その質問に結構まともに夫は答える。妻には驚きだった。
実はケアマネジャーは質問を重ねながら、夫が答えられる質問の形と内容を微妙に選んでいたのだが、妻にはそのからくりは分からない。久しぶりに冗舌に話す夫の姿に目を丸くするばかりだった。
◇ケアマネジャーの姿勢
こんなこともあった。妻が夫の物忘れについて口に出した瞬間、ケアマネジャーは「そのことについては、後ほど聞かせていただきますね」とほほ笑みながらも、きっぱりと言うのだった。
夫婦面談の最後に、ケアマネジャーは夫に向かって言った。
「この後、退院の手続きのことなど、事務的な話があります。そのことについては、奥さまとお話ししてもよろしいでしょうか?」
夫は、「ああ、構いません。細かいことは妻に任せてあります」と返した。
ぼけが治ったのかと妻が思ったほどだった。
◇妻との面談
夫が去った相談室で、さっそく妻は夫に対する不満を並べ立てた。今までのこと、これから不安…。心にたまったものをこれだけ吐き出したのは初めてだと妻は思った。
ケアマネジャーは妻の苦労を深くねぎらった。妻は話して良かったと思った。今度はケアマネジャーが、夫の「物忘れ」について語り始めた。要点はこうだ。
▽治る「物忘れ」かもしれないので、なるべく早く専門医を受診すること。
▽本人を傷付けないように診察をする専門医を紹介できること。
▽「認知症」と診断されても、周囲の適切な対応、介護サービスの利用、治療を組み合わせれば、症状はそれほど進まないこと。
▽本人は忘れることに対して大いに苦しみ、不安を抱いていること。
▽答えられないような質問をされたり、忘れたことを問い詰められたりするのが、本人はとてもつらいこと。それにより、好ましくない症状が出てくる恐れがあること。
▽物忘れを何気なく補うことで、本人は焦らずに過ごせること。
妻は、穏やかに話すケアマネジャーの言葉を静かに聞き、この面談を境に、夫と妻の関係は大きく変わった。それ以降、妻の悪態は影を潜めている。(了)
佐賀由彦(さが・よしひこ)
1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。
(2024/03/19 05:00)
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