こちら診察室 介護の「今」

勝たない交渉術と落としどころ 第54回

 「世の中万事、“落としどころ”がある」と語るのは、75歳の男性だ。

 ◇白か黒かが多過ぎる世の中

 「白か黒か、善か悪か、敵か味方かで考えるのは単純過ぎる。正義を振りかざしていいのは、遠山の金さんか鬼平だけにしてほしいものだね」

 男性は続ける。

 「ツイッターだかXだか知らんが、最近のSNSというやつは、極端な二元論ばかりが横行する。黒、悪、敵と見なすと、攻撃する相手の過去をほじくり返して人格ごと否定する。デマを流しまくる。兵庫県の惨状がいい例だ。その結果、国の法律を無視するとんでも知事の再選だ」

 怒りが募る。

 「至る所で修復困難な分断が起こり、国と国との関係でそれをやると戦争にすらなる。スポーツの引き分けや、将棋の千日手や持将棋はじれったいが、浮世のしがらみの中では、引き分けが最良の選択となる場合が多いものだ」

サバンナに分布するバオバブ。75歳の元商社マンは現役時代、アフリカに長く駐在した

 ◇商社時代の交渉術

 男性は元大手商社マンだ。主に買い付けを担当して世界中を飛び回った。文化も価値観も違う異国の売り主たちと丁々発止と渡り合う骨太の仕事を続け、海外暮らしも長い。

 特にアフリカには長く駐在。複雑な交渉を何度も経験した。

 「交渉に必要なのは痛み分けの知恵だ。それが落としどころとなる」

 それが男性の持論だ。

 かつてアフリカのとある国での買い付け交渉で、相手国の責任者が席を蹴って交渉を打ち切ろうとした時のことを思い出す。

 「お前たち日本人は、いつもいい子ぶって得をしようとする」

 男性は「こちらも痛みを引き受けます」と、とっさに返した。その後、席に戻った責任者らと粘り強く交渉を続け、何とか大型商談をまとめ上げた。

 交渉で「あなたのために」などと正義漢ぶるのは、無用の長物だ。お互いが少しずつ損をする。それが交渉をまとめるこつなのだ。

 ◇早合点

 そんな男性は、半年前に脳梗塞を発症。いち早くリハビリに取り組んだが、半身に残ったまひはなかなか手強い。

 まひの状態は「プラトー」だと医者は言う。プラトー(plateau)とは高原や台地の意だ。英語が分かる男性は「もうこれ以上良くならないのか」と悲嘆した。だがそれは、やや早合点だった。

 確かに回復のスピードが落ち、目立った変化が見られない状態をリハビリではプラトーという。しかし、症状が固定してしまったのかというと、そうではなく、リハビリの継続やプログラムの見直しなどで、回復が好転する可能性を残している。

 「そうだった。交渉でも早合点は禁物だった」と反省する男性は、気を取り直してリハビリを続けることにした。

 ◇介護者の負担

 男性の自宅には、長男の家族が同居している。孫は大学受験を控えている。介護はもっぱら嫁(長男の妻)の役割だ。だが、孫の進路で男性と嫁の意見が食い違い、最近はどちらかといえば不仲である。妻は5年前に他界した。

 その嫁が音を上げている。病院でのリハビリは短時間で、その送迎は嫁の役割だ。週3回。日々の介護に加え、息の詰まりそうな送迎の時間を「たまったものじゃないわ」と考えている。

 そこで、嫁は送迎付きのリハビリが利用できる介護保険の申請を病院の医師を通じて勧めてもらおうと考えた。義父は医師が言うならと納得。認定の結果、要介護2となった。

 しかし、リハビリで医療保険と介護保険の併用はできないことを知った男性は、医療保険でのリハビリを続けることにした。

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