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勝たない交渉術と落としどころ 第54回

 ◇嫁の作戦

 男性がリハビリを利用しているのは、リハビリテーション病院だ。脳血管疾患の場合は、診断から180日という上限日数がある。

 しかし、上限が来るまでとても待ちきれないと思った嫁は、今度は、ケアマネジャーを味方に付けることにした。その事を男性はまだ知らない。

 さて、担当になったケアマネジャーは、ケアプラン作成のためのアセスメントを始めることにした。男性は言う。

 「身体機能の維持増進を損ねる要因を片っ端から取り調べるんだよ。『君は私の生活の治安警察か』と思わず言おうとしたけど、我慢したよ。で、ケアマネジャーは取り調べの結果から、リハビリの継続や社会的交流の必要性をあぶり出し、デイ施設に通うように提案したんだ」

 ◇ケアマネジャーとの対峙

 「病院でリハビリができなくなるまで、介護保険は使わない」と男性がケアマネジャーの提案を拒否した。でもケアマネジャーは「あなたの健康のためですから」と正義の使者を気取り、試し利用を勧めるなどあきらめない。

 その正義の裏に嫁の影を垣間見た男性は「嫁に言われたんだろう」とずばりと聞いた。するとケアマネジャーは、返事に窮した。

 「正直な人だな」と男性は思った。

 ◇交渉開始

 男性は、嫁が介護負担にあえいでいるのを知っている。嫁の介護があるから自宅での生活を続けられることも承知だ。でも、みすみす嫁の術中にはまるわけにはいかない。「痛み分けに向けた交渉の時が来た」と男性は確信した。

 「相手の狙いが分かったからこそ、交渉が始められるんだ。相手の要求を一部のみ、同時にこちらの望みを実現するという交渉だ」

 こちらの望みとは、リハビリを続けながら、自宅で気兼ねなく暮らし続けることだという。そのためには嫁との関係修復も必要だ。

 相手の要求は、週2回のデイ通い。介護保険のデイなら、時間も長いし、送迎付きだ。昼食が出たり、風呂にも入れたりする。その間、嫁は羽を伸ばすことができる。

 ◇落としどころ

 相手の要求をのみ、介護保険のリハビリを使う。ただし、回数は半分の週1回だ。医療保険のリハビリは打ち切りとなるが、介護保険のデイは、リハビリに強いデイケアを選ぶ。それに加え、訪問リハビリを入れ、医療保険と変わらないリハビリの回数を確保する。そのあたりが交渉の落としどころだろうな、と男性は考えた。

 人、組織、国。二つ以上が相対するとき、それぞれの言い分が存在する。望みを通そうとするだけでは先に進まないし、封印すれば不満が高じる。「局面を打開するのは、勝たない交渉術だよ」と、元商社マンは語るのだった。(了)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。中でも自宅で暮らす要介護高齢者と、それを支える人たちのインタビューは1000人を超える。



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