こちら診察室 アルコール依存症の真実

「ブラックアウト」 第20回

 その男性は子どもの頃は米国に住んでいた。父親のルーツはアイルランドからの移民、母親は日本人。ジュニアハイスクールに入る頃に両親は離婚し、母親に連れられて日本に来た。名前は日本語名の加藤太一(仮名)。日本語も普通に話せた。地方の田舎町、露骨ないじめは受けなかったものの、編入した中学校では何となく居心地が悪かった。

目覚めた時は警察署の中だった

 ◇「よそ者」

 高校に進んでも居心地の悪さは続いた。一目してハーフと分かる顔立ちだったからだろうか、よそ者扱いされている気がした。学校を休みがちになり、数少ない友人とジャズ喫茶に入り浸った。

 米国では、父親がジャズを聴きながらコーヒーにラム酒を入れて飲んでいた。「恰好良い」と憧れた。ウイスキーのポケット瓶をジャズ喫茶に持っていき、店員の目を盗んでコーヒーに入れて飲んだ。おいしさは分からなかった。というより、まずかった。でも、ほんわりとした感じが心地よかった。それが酒の飲み始めだ。

 ◇酒に強い体

 そのうちに、ジャズよりも酒の方に興味が移っていった。「もっと酔っ払いたい」と思うようになった。母親に「友だちと夜釣りに行く」と言っては出掛け、夜釣りはそっちのけで酒を飲んだ。

 飲むうちに、友人の誰よりも酒が強いことが分かってきた。「自分に流れるアイルランド移民の血が、酒の強さの源泉なのだろう」と思った。すでに、ウイスキーのボトルを半分は空けないと酔っ払わないようになっていた。一本飲み干すこともあった。

 ◇大げんかをきっかけに

 酔うために飲んだ。ただ、酔うためにはそれなりの量が必要だ。高校生ゆえに小遣いには限りがある。飲めない日も多かった。

 「むしゃくしゃしていました。久しぶりに酒を飲んだ日に、言いがかりを付けてきた街のチンピラと大げんかをしました」

 加藤さんは、体が大きく腕っ節も強い。チンピラをボコボコにして大けがをさせた。学校に知られ、退校処分になった。泣き叫ぶ母親を尻目に、東京に出た。

 ◇仕事をし、結婚をし

 ほとんど無一文で上京した東京では住み込みで働ける仕事を探した。職場では一番年下だった。親子ほどに年の違う先輩もいた。毎晩のように飲みに連れて行かれた。「お前、強いなあ」とおだてられ、深酒を重ねた。吐き方や迎え酒も覚えた。

 やがて、どんなに飲んでも吐かなくなった。誰よりも強かった。どんなに飲んでも翌日の仕事には響かなかった。若かった。元気だった。

 「19歳で三つ年上の女性と知り合いました。2年近く交際した後、同居を始め、1年後に結婚しました。僕は、高校中退でハーフです。向こうの親は猛反対。でも、妻のおなかに子どもがいました。やがて相手の親も諦め、結婚式を挙げました」

 ◇酒がおいしいと思えた頃

 結婚したのは22歳だ。高校を中退した加藤さんだったが、英語が話せた。居酒屋で外国人と流ちょうな英語で話す加藤さんを目撃した飲み友だちが、英語を生かせる仕事を紹介してくれた。給与も上がった。妻は喜んだ。

 新しい仕事は外回りで、しかも働き方が比較的自由であった。昼食時にビールを飲むのが当たり前。喫茶店は酒が置いてある店しか入らなかった。つまり、昼間から酒を飲んでいるのだが、少しぐらいの酒では顔色は変わらなかった。ブレスケアの粒を口の中でつぶせば仕事には何も問題はなかった。「酒が本当においしい」と思ったのはその頃だ。

 「24歳の時だったでしょうか、夕飯の後に飲む水割りを頬ずりするぐらいにうまいなあと思い、その頃飼っていた犬に『お前も飲め』なんて言ったりしたものでした」

 加藤さんは「その頃までは健康な飲み方だったのだと思います」と振り返る。

 ◇右肩上がりの酒量

 飲み屋でも、家庭でも、仕事の合間にも、のべつ幕なしに酒を飲んでいた。もっとも仕事の合間に飲むビールは水の位置付けで、酒の内には入れていなかった。

 料理や気分によってウイスキー、ジン、ウオッカ、日本酒、焼酎を飲み分けていた。
「20軒近い居酒屋やスナックにボトルをキープしていて、どの店に、どのボトルが、どれくらいの量があるのかを正確に記憶していたものでした」

 地酒に凝ったり、バーボンウイスキーやシングルモルトウイスキーに凝ったりなど、酒を味わう余裕もあった。ただ、酒量は確実に増えていた。

 「シングルモルトに凝っていた時でした。友人5人とバーに繰り出し、各人がお気に入りのウイスキーをボトルごと注文しました。味の違いが分からなくなるからと、ストレートでグイグイと飲み比べたことがありました。友人たちは僕ほどには飲めません。だから、僕は一人でボトル2〜3本分は飲んだと思います」

 家でも飲んだ。

 「カミさんがお酒を飲まない人だったんで、飲みたい酒を買って帰ります。いつの間にか、どんな酒でもストレートで飲むようになっていました。急須に水を入れ、交互に飲みました。妻は、お酒をやめてほしいようでした。もちろん、聞く耳は持ちません。だって、あんなにおいしい酒を飲まない生活は考えられなかったからです」

 しかし、そんな生活が長続きするわけはない。破綻の兆しは唐突にやって来た。

 ◇ぼんやりした目覚め

 ある朝、目が覚めると見慣れない部屋にいた。その部屋がブタ箱(留置場)だったのか、トラ箱(保護室)だったのかは思い出せない。ぼんやりした目覚めだったからだ。確かなことは泥酔して警察署に収容されていたことだけだ。目覚めたその日に帰してくれたから、恐らくはトラ箱だったのだろう。

 警察による酩酊(めいてい)者の保護は「酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」で規定されている。同法の俗称は「酔っ払い防止法」「トラ退治法」「酩酊防止法」「酩酊者規制法」などさまざまだ。

 加藤さんは、なぜ警察で目覚めるに至ったのかをまったく思い出せなかった。「ブラックアウト」だった。ブラックアウトとは、飲酒をした翌日に飲んでいた時の出来事を思い出せない状態で、アルコール依存症の初期症状とされる。飲酒の習慣をそのまま続ければ、アルコール依存症由来の深刻な事態を招くことになる。しかし、加藤さんはブラックアウトが発する警告を軽視した。待っていたのはどん底の生活だった。(続く)

 佐賀由彦(さが・よしひこ)
 ジャーナリスト
 1954年大分県別府市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。フリーライター・映像クリエーター。主に、医療・介護専門誌や単行本の編集・執筆、研修用映像の脚本・演出・プロデュースを行ってきた。全国の医療・介護の現場(施設・在宅)を回り、インタビューを重ねながら、当事者たちの喜びや苦悩を含めた医療や介護の生々しい現状とあるべき姿を文章や映像でつづり続けている。アルコール依存症当事者へのインタビューも数多い。
 


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