女性アスリート健康支援委員会 日本女子初の五輪メダリスト

「素人は要らない」と断られた、高校陸上部
~有森裕子さんが語るマラソン人生(1)~

 ◇「鉄欠乏性貧血」で苦しんだ高校時代

 1992年バルセロナ五輪女子マラソンで銀メダルを獲得し、マラソンでは日本女子初のメダルを獲得した有森裕子さん。4年後のアトランタ五輪でも銅メダルを手にし、2大会連続のメダリストとなった。陸上との出会い、トップランナーになるまでの道のり、女性特有の生理の問題、障がい者スポーツとの出会い、副会長を務める大学スポーツ協会(UNIVAS)などについて話を聞いた。

 中長距離の名指導者だった故小出義雄さんに「体の素質はないが、一番大事なのは『やる気』。根拠のない『やる気』に興味がある」と言われてスタートしたマラソン人生。有森さんは「待っているのではなく、自分から動くことの大切さ」を説いた。インタビューには、スポーツドクターの先駆けとして長年活動し、陸上の強化で有森さんとも交流がある一般社団法人「女性アスリート健康支援委員会」の川原貴会長もオブザーバーとして参加した。

オリンピックシンボル前に立つ有森裕子さん

 川原会長 私もスポーツ医学の立場から、陸上長距離の高地合宿に同行しました。合宿の練習が終わった後、有森さんだけバスに乗らずに「自転車に乗って帰ります」と言って、一人で帰っていったのを覚えています。「面白い人だなあ」と思いましたね。きょうは有森さんのマラソン人生について、すべて語っていただきたいと思います。

 「そういうことがありましたか。練習が終わった解放感に浸りたかったのでしょうかね」

 ―有森さんと陸上との出会いは、いつ始まったのでしょうか。

 「中学生の時はバスケットボール部に所属していました。でもバスケは全然駄目でした。チームプレーには向いていませんでした。しかし、『何か自分にできるものを見いだしたい』と思っていました。そこに運動会で、みんなやりたがらない800メートル走に空きがあって、『ようし』と思って走ったら優勝しました。中学1年の時でした。それが唯一、自信の持てた場でした。バスケットボールは3年間やりましたが、運動会では3年間自ら立候補して出場し、『これだったらできる』と思い、高校は陸上部のある学校ということで岡山の就実高校を選びました」

 ―そこから陸上人生が始まったのですね。

 「ところが陸上部に入ろうとしたら、『うちは素人は要らない』と言われ、ずっと断り続けられました。でも、担当の先生に押し掛け続けて3カ月ぐらいして、ようやく入部が許されました。しかし、『仮入部』ということで、『駄目だったら、ここにいなくていいから』と言われました。入部できて、うれしくて朝から晩まで練習しましたが、結果は見事に駄目でした。地方の大会では予選落ち、インターハイ(全国高校総合体育大会)、国体などにも出られませんでした。高校1年の年に、皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会(女子駅伝)が始まり、『これは私が出られる大会だ』と思って頑張ったのですが、岡山県チームのメンバーとして3年連続補欠でした。選考のタイムレースでは走ることができ、12人のメンバーの中に入れましたが、結局、本番前の現地でのメンバーを選ぶ選考レースで最下位。3年連続補欠でした。大切なタイミングで、私の身体は貧血で走れる状態ではありませんでした。食事はしていても鉄分を吸収はしにくい身体になっていました」

 ―体重はすぐに減る方でしたか。

 「高校時代は体重を減らせば速く走れると思い、とにかく着込んで練習したら、3キロぐらいはすぐに減りましたね。体が軽くなるような気持ちになって、最初のレースは体重の軽さで確かに走れましたが…結局、体重が減ったのではなく、大量の汗と鉄分やミネラルが抜けていただけ。後はもう調子が落ちるだけでした」

 川原会長 食事制限のせいではなく、脱水症状でしたか。

 「食事制限は全くしませんでした。母は栄養士の資格を持っていて、仕事で大学の学食を担当していましたので、いろいろ作ってくれ、食べさせてくれましたが、食べても食べても過剰に汗をかいていたため鉄分はすぐに出てしまうようでした。(鉄分の入った)鉄剤を処方していただいて飲んでいましたが、それさえも出てしまう。貧血でヘモグロビン数値が上がらない『鉄欠乏性貧血』と診断され、(鉄分の数値を)今の6からせめて12(女性の血清鉄の正常値は48~154)にはしなければいけないということで、血管から直接に鉄剤を入れる方法によって何とか高校3年間を切り抜けました。でも、女子駅伝では3年間補欠。苦しみましたね」

 川原会長 有森さんは生理で困ったことはありますか。

 「私は生理については困ったことがありません。まず、生理痛がありません。『生理が試合にぶつかるかな』と思ったら、試合当日だけ止まりました。レースが終わったら、また生理が来るという具合で。奇跡のような話ですが」

 川原会長 無月経になったことはありますか。

 「そうなったこともありません」

 ―鉄分の不足状態で大学に進学しますが。

 「私は教員になりたかったので、日本体育大学に行こうと思いました。高校の監督が何の実績もない私を日本体育大学に推薦してくださり、何とか合格することができました。環境が変わるというのは面白いもので、貧血だった状態がかなり改善されたのです。大学生ぐらいになると女性ホルモンのバランスの崩れで体重が変動しやすくなるようで、しかも、なんだかんだといって食事会とかもあり、1年生だと断れませんし、出席します。そして食べます。そんな日常の中で体重がある程度ある状態で、メンタル的にも健康だったのでしょうね。貧血も出ず、実は1年生でインカレ(日本学生陸上対校選手権)にデビューし、3000メートルで3位になりました。先輩方を押しのけて、バーンと出ることができました。でも、その後、私は脚を故障して体重が55キロまで増えてしまいました…(笑)」

  • 1
  • 2

女性アスリート健康支援委員会 日本女子初の五輪メダリスト