女性アスリート健康支援委員会 日本女子初の五輪メダリスト

「素人は要らない」と断られた、高校陸上部
~有森裕子さんが語るマラソン人生(1)~


有森さん(右)と川原会長

有森さん(右)と川原会長

 ◇「トライアスロンで第一人者になろうか」

 ―貧血だった高校時代の体重は何キロでしたか。

 49キロぐらいでした。インカレに出場した時も40キロ台でしたが、脚を故障して体重が一気に増えて人生最大の55キロまで太りました。その時は脚が痛くて練習もできませんでしたが、上半身は元気だったので水泳をしたり、自転車をこいだりしていました。『これだったらトライアスロンができるのではないか』と思いました。その頃は、まだ女子選手があまりいないということを知り、それなら女子の第一人者になろうと思ったわけです。脚も治って痛くないのに、『痛い』とうそをつき、親からの仕送りのお金を全部使って自転車を購入して、着々とトライアスロンに向かって準備を始めたのが大学2年の秋でした。そうしたら買った新品の自転車が盗まれました。2台目は無く、これは何かのお告げだと思いました」

 ―それで再び陸上の生活に戻ったわけですね。

 「『何しに来たのだ。教員になるためでしょ、そのために走りに来たのでしょ』と思い返し、大学3年の春にまた走り始めました。当時、大学の寮の食事が貧相で、栄養バランスが全くなくて、私が寮長になってそれを変えました。私自身も体調を管理するようになり、走れるようにもなり、秋には駅伝も走れるようになりました。4年になると寮を出なければいけませんから、アパート暮らしに。母が栄養に関して知識もあり、厳しい人でしたので、自分でも料理をしました。体調が良ければ、同じものを毎日食べても平気でしたから、栄養バランスだけは考えて朝食、夕食を作って食べました」

 ―その頃の体重は以前の状態に戻ったのでしょうか。

 「駅伝を走れる状態になった時には、体重は48キロか49キロに戻っていました。大学4年になり、教員になるため教育実習も受けていましたが、気持ちに変化が起こりました。『もう少し走りたい』と思い、『もしかしたら、ちゃんと専門の人に強化メニューをもらったら、もうちょっと、きちんと走れるかもしれない』。そんなことを考えるようになりました。実業団の誘いはまったくありませんでしたが、どこかしら気持ちで入れると思い、直談判、ぶつかっていったわけです」(了)

 有森裕子(ありもり・ゆうこ) 1966年12月17日生まれ、岡山市出身。就実高校、日本体育大学を経てリクルート入社。92年バルセロナ五輪の女子マラソンで日本女子初の銀メダル、96年アトランタ五輪でも銅メダルを獲得。公益財団法人・日本陸上連盟副会長、公益財団法人・スペシャルオリンピックス日本理事長、一般社団法人・大学スポーツ協会(UNIVAS)副会長、公益財団法人・日本障がい者スポーツ協会理事。認定NPO法人・ハート・オブ・ゴールド代表理事、2010年国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞、同年津田梅子賞など受賞歴多数。

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