「医」の最前線 熊本総合病院の軌跡と奇跡

〔第5回〕アメリカ留学で街づくりに関心
再建の立役者、島田信也病院長

 熊本県八代市にある熊本総合病院は、かつて熊本県内のつぶれる病院ナンバーワンとささやかれていた。前病院長は就任からわずか4カ月で急死。病院長の後継者になるのは、火中の栗を拾いにいくようなものだと誰もが思った。しかし、2006年に島田信也氏が病院長に就任すると、1年半で累積7億円の赤字を解消し、グループ内でトップの病院に躍進した。

小説家になりたかった高校時代(後列中央)

◇学校が嫌い

 破綻寸前の病院を見事に復活させた島田院長とは、いったいどんな人物なのだろうか。少し生い立ちをさかのぼってみたい。

 島田氏は熊本の出身。ごく普通のサラリーマン家庭に生まれたが、代々地主で経済的には恵まれて育った。内科医の兄と画家の姉がいる。「兄貴が優秀で、私はカスみたいに扱われていました。小さい頃は悪い思い出しかないですね。とにかく学校が嫌いで、授業はほとんど聞いていませんでした」

 地元の名士の家に生まれ、それ相応の立ち居振る舞いを求められたが、島田氏はそれに反発を覚えた。「自分が地主だから特別みたいな感覚がおかしいと思って。家族の中では異質な存在でしたね。私は突然変異だと思うんです」

島田信也病院長

 ◇小説家を目指す

 小説家を目指していたが、高校の同級生に「小説家で生活するのは難しいから、まず医者になってから小説を書いたら」と言われ、すっかりその気になった。熊本大学医学部に進学。「小説家になるために医者になったので、大学でもマージャンに明け暮れ、ろくに勉強しませんでした。しまいには医学部に友達がいなくなって、工学部の連中とばかり付き合ってたんです」

 外科医を選んだのは、手先が器用だったし、勉強しなくてもいいと思ったから。「外科医になり患者さんと接するようになって初めて、知識もない、修練も足らない、患者さんのためにならない自分が心から恥ずかしいと思いました。これじゃ、いかんと思って、本気になって勉強を始めたのは、それからです」

アメリカ国立衛生研究所(NIH)時代

 ◇アメリカで本領発揮

 生まれ変わったかのように勉強に精を出し、論文を書いて、33歳でアメリカへ渡った。「私は田舎もんだからですね、初めてワシントンDCに降り立ったとき、その街の在り方にびっくりして腰を抜かしました。イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、スペインなどのいいところをすべて造られている。1回見て、これはただものじゃないと思いました。街の人はみな親切。環境が人を変えるんだと思いました」

 最高の環境の中で過ごしたアメリカ国立衛生研究所(NIH)での4年間は島田氏にとって、人生のターニングポイントとなった。「最初はタコ部屋みたいなところで仕事をしていたんですが、結果を出したら研究室を一部屋与えられました。NIHで個人専用の研究室を与えられるのは大変なことなんですよ。それくらい頑張りました」

1980年代のワシントンDC

 当時はがんの分子標的治療の研究が盛んで、消化器外科医の島田氏の研究テーマは、胃がんの分子標的治療だった。「がん細胞をインターフェロンで刺激したとき、出てきた分子を抽出してDNA構造まで決定したんです。結局は特異的分子ではなかったんですけど、ボスが認めてくれて、『もしかしたらノーベル賞かも』と言われた夢のような時もありました」

 NIHでは、地位が上がるにつれ、給料のみならずバケーションも増えるシステムだった。島田氏はその休日の時間を使って、ワシントンDCの街を歩いた。「ワシントンDCは1700年代に、ランファンという人が設計して作った街なんです。建物は石造り。この街を見て、熊本の街はなんちゅう計画性のない街だと思いました」

 このときの体験が、島田氏が街づくりに強い関心をもつきっかけとなった。(中山あゆみ)

島田信也院長プロフィル
1955年 熊本県八代市生まれ。
  80年 熊本大学医学部卒業
  88年 米国ワシントンDC 米国立衛生研究所(NIH)米国国立癌研究所(NCI)主任研究員
  92年 三井大牟田病院外科医長
  93年 国立熊本病院外科医院
  95年 熊本大学医学部外科学第二講座助手
2001年 健康保険八代総合病院外科部長
  02年 熊本大学医学部付属病院第二外科講師
  03年 熊本大学大学院医学薬学研究部 消化器外科講師
  05年 熊本市立熊本市民病院外科部長
  06年 健康保険八代総合病院(現:JCHO熊本総合病院)病院長


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