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なぜ医師として福島で働くのか(1)
~初期研修時に震災、募った無力感~ 公益財団法人ときわ会常磐病院 外科医・臨床研修センター長 尾崎章彦(福島県立医科大学特任教授)

 筆者は、福島県・浜通り地方(沿岸部)のいわき市で、乳がんの治療を専門として働いている大学医学部卒業後12年目の医師です。現在勤務している常磐病院では、臨床研修センター長(医学部卒業直後の医師「初期研修医」のリクルート責任者)として活動している他、福島県立医科大学においても特任教授(非常勤)として、震災後の浜通り地方における、がん患者の健康影響を明らかにするための調査を行っています。

 今回は、筆者がなぜ浜通り地方で継続的に働いているのかという点について、より掘り下げてご紹介します。地方自治体が医師をはじめとする専門職をリクルートするに当たり、何かしらのヒントになればと思います。

旭市沿岸部に押し寄せる津波=2011年3月11日

 ◇医師1年目で震災に遭遇

 筆者が福島県での活動を開始したのは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が影響しています。

 筆者は2010年に東京大医学部を卒業し、千葉県旭市にある国保旭中央病院で初期研修医として勤務を開始しました。そして、1年目の勤務が終わりに差し掛かった11年3月、震災に遭遇しました。

 当時は麻酔科での研修中でした。手術前の患者の病室を訪問していたとき、激しい横揺れを感じ、慌てて地面に伏せたことが今でも明瞭に思い出されます。患者の安全を確保し、手術室に戻ると、そこは戦場のような様相を呈していました。患者さんの安全を確保するため、スタッフが総出で患者さんを避難させていたのです。

 旭中央病院は、海からわずか数㌔しか離れておらず、津波が到達するかもしれないという懸念があったのです。ただ幸いなことに、病院に津波の被害はありませんでした。しかし数時間後、津波で被害に遭った患者が搬送されて来るという情報が流れてきました。

 旭市は、千葉県内で死者数が最も多かった自治体です。市内の飯岡漁港を中心に津波が押し寄せ、十数名が亡くなりました。旭中央病院は東総地域(県東部)の中心的な医療機関であり、また沿岸部に近かったため、当時は津波で溺れた多くの患者を収容し、初期治療(初療)に当たりました。

 麻酔科研修の業務は手術室が中心で、病棟で継続的に治療に携わる担当患者はいません。このため震災当日、筆者は救急室での溺水患者治療に携わることになりました。

院内で患者さんを安全な場所に避難させた(写真の一部に修正)=2011年3月11日

 ◇経験浅く、心にとげ

 救急室で待機していると、次々と患者が運ばれて来ました。一部の患者は人工呼吸器での管理が必要な状態であり、それを行うには人工呼吸器と肺をつなぐ気管チューブを、気道に挿入しなければなりません(気管挿管)。

 麻酔科での研修中だった筆者は毎日のように、全身麻酔が必要な症例に対し、その手技を実施していました。しかし、初めての救急外来で行う気管挿管は、手術室で行うそれとはあまりにも異なっていました。

 救急外来は騒然とした状況にあり、また患者の口の中には唾液などの分泌物や、患者が飲み込んだと思われる泥などが付いており、十分に視野を確保することができませんでした。

 筆者がまごついていると、先輩医師に「どけ」と声を掛けられ、気管チューブを取り上げられました。そして先輩医師は慣れた手つきで、看護師のサポートを受けながら気管挿管を実施しました。情けないような、ほっとするような気持ちで、その後も救急外来で初療に関わり続けましたが、経験の浅い当時の筆者にとって、平常心を保ちながら患者のケアに当たることは難しい状況で、無力感ばかりが募ったことを覚えています。

 震災から数時間ほどたち、救急外来が落ち着いた段階で同僚と集まってテレビを見ると、東北地方の沿岸部が津波で押し流される映像が流れていました。

 震災当時に覚えた無力感や悔しさは、その後もとげのようなものとして心にずっと引っ掛かっていました。ただ、日々の研修に取り組んでいるうちに、その無力感や悔しさは徐々に記憶から薄れていったのでした。

 ◇3年目以降の進路選択

 ところで震災が起きた頃、筆者を悩ませていた問題が一つありました。それは初期研修が終了した3年目以降、どの科を自分の専門として選択するかという問題です。もともと筆者は学生時代、膠原病内科などを将来の専門として考えていました。

 膠原病内科は、関節リウマチ全身性エリテマトーデスといった自己免疫疾患などを中心的に診療する科であり、さまざまに専門分化する内科の中でも「内科」色が強い科です。

 例えば手技の実施は限定的であり、その治療選択肢のほとんどが薬剤での治療となります。また当初、他の科で診断がつかず、原因究明のために膠原病内科にコンサルト(診察)されるようなケースも少なくないため、診断学としての色彩が強い科でもあります。

 学生時代は、そもそも自分が手技に関わる機会が一切なかったため、手技が限定的な膠原病内科の特徴はあまり気になりませんでした。しかし医師として働くようになり、治療選択肢が多い科、すなわち、より多くの手技があるような科に興味を持つようになりました。ただ手技が多い科といっても、実際には多くの選択肢があります。

 内科で代表的なのは、消化器内科と循環器内科です。このうち消化器内科は学生時代から興味を持ち、母校の消化器内科の先生方とも仲良くさせていただいていました。そのため、将来の専門として有力候補でした。加えて、初期研修医1年目に研修を行った循環器内科にも興味を惹かれていました。

 しかし、そのような思いで3年目以降の研修先として見学に出向いた幾つかの医療機関では、あまり心に響くものがありませんでした。残された時間が減っていく中で、同期は次々と進路を決めていき、強い焦燥感を抱いたことを覚えています。

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