なぜ医師として福島で働くのか(1)
~初期研修時に震災、募った無力感~ 公益財団法人ときわ会常磐病院 外科医・臨床研修センター長 尾崎章彦(福島県立医科大学特任教授)
救急外来で患者を受け入れる様子(写真の一部に修正)=2011年3月11日
◇外科を選ぶものの…
そして初期研修医2年目の2011年夏ごろ、最終的に筆者が選んだのは外科でした。
実は学生時代、筆者は外科医だけにはならないだろうと考えていました。それは外科での病院実習が苦痛だったからです。外科の病院実習は、当たり前ですが、手術に参加することが求められます。当時はその時間がどうしても好きになれませんでした。
その理由は、どういった手術かを頭の中では理解していても、目の前で繰り広げられている光景とリンクせず、ただ長時間、拘束されているように思えたからです。しかし、初期研修医2年目の7月に受けた外科研修中に、その印象は大きく変わることになりました。
学生時代よりも解剖や手術手順が理解できていたためか、手術がはるかに楽しく思えました。また、筆者が外科研修中にマンツーマンで指導を仰いでいた須原正光医師にも、大きな影響を受けました。須原医師は筆者と数年しか学年が変わりませんでしたが、優秀な外科医として尊敬を集めていました。須原医師と出会って「この人のようになりたい」と思い、外科医を志したといっても過言ではありません。
随分安直に聞こえるかもしれませんが、進路にかなり悩んでいた筆者にとって、須原医師との出会いはそれほどまでに大きなものでした。この経験から言えることは、若手医師の進路選択において、ロールモデルの存在が極めて重要であるということです。筆者の場合、消去法で選択肢をかなり絞り込んではいましたが、最終的にはロールモデルの存在が決め手となりました。
ただ繰り返しになりますが、タイミングは同じ学年の初期研修医と比べてもかなり遅い時期でした。そのため、旭中央病院に外科トレーニングのために残ることはできませんでした(既に3人の同期が、3年目も引き続き勤務することが決定していました)。
一方、外に目を向けても、どの医療機関で3年目以降のトレーニングを積めばよいのか、全く分かりませんでした。もともと外科を選択肢として考えていなかったこともあり、どの医療機関が良質のトレーニングを提供しているといった知識が欠落していたのです。そこで母校を頼ることにしました。
◇母校を頼る
東大は、3〜5年目の外科医を対象とした外科プログラムを提供していました。プログラムは、付属病院にある心臓外科や呼吸器外科、小児外科などが連携して実施しており、これらの科を志す医師が、外科医としての基礎的な知識や能力を身に付けられるように設計されていました。
ただ誤解を恐れずに言えば、その主眼は、若手医師を「労働力」として東大傘下の地方の医療機関に派遣することでした。そして、最前線で外科医として臨床現場に従事することで、必要な知識や技術を身に付けることができると想定されていたのです。
必要な書類手続きを経ると、初期研修医2年目の秋ごろに、プログラムで選択できる医療機関のリストが送られてきました。そこには20前後の医療機関の名前が並んでいました。
医療界において東大は内科を中心に、現在に至るまで大きな影響力を持ちます。ただし外科領域では、慶応大や九州大など他大学も大きな影響力を持ち、東大の影響力は内科ほど圧倒的ではないと考えられています。それでも、やはり多くの関連病院を傘下に持ち、そこに多くの医師を派遣しているのです。これについては、テレビドラマにもなった小説「白い巨塔」で描かれた世界をイメージしていただいても、あながち間違っていないかと思います。
送られてきたリストの中で筆者の興味を引いたのが、福島県会津若松市にある竹田綜合病院でした。東北地方で選択できる唯一の医療機関であり、「放射能の影響は限定的です」というただし書きがありました。
それを目にしたとき、震災当時に心に刺さったとげが再びうずくとともに、竹田綜合病院に対し、外科研修先として強い関心を抱くようになりました。東北の状況がどうなっているか、福島の状況がどうなっているか、急に心の中で興味が強くなってくるのを感じました。
ただ、同時に筆者が気になったのは、実際に提供されているトレーニングがどういった内容であるかという点です。そこで筆者と同じように外科を選択し、東大の外科プログラムに参加して外科研修を行っている先輩医師に話を聞いてみることにしました。
筆者は学生時代、アメリカンフットボール部に在籍していました。同部OBには外科を選択した先輩医師が多くいました。これについては、体育会OBの多くが商社に入るのと似ていると思います。そして、アメフト部OBからは竹田綜合病院を推薦する声が多く聞かれたのでした。
他の研修医と(著者は向かって右から2番目)
◇地方の医療機関の強み
竹田綜合病院に限らず、若手外科医の進路選択について、先輩医師が口をそろえて述べていたのは、外科医になって最初の数年間は地方の医療機関で研修した方が良いだろうということです。これは、外科医が究極的には「技術職」であることが影響しています。つまり実際に手を動かし、経験を積むことが重要だということです。
例えば都市部の医療機関を考えてみましょう。現在は、がんの手術数に基づいて「良い病院」をまとめた書籍が多く出版されています。そこでは、都市部の医療機関が数多くランクインしています。東京都内であれば、多くのがん手術を実施している医療機関が多数、存在します。
しかし、このような医療機関は若手外科医に限らず、外科医一般にとっても人気であり、多くの外科医が在籍することとなります。また受診する患者の期待値が高く、より良い医療機関を求めて他と比較していることも少なくないため、若手外科医に手術を実施させにくい雰囲気があります。
一方、地方の医療機関も、旭中央病院のように所在地域の中心的な存在であれば、多くの手術を実施しています。ただ地方に特徴的なのは、若手医師が診療に参加することで、初めてオペレーションが成立している医療機関が少なくないことです。
医療機関側が若手外科医に手術を任せることをアピールポイントとして、若手外科医をプロモートしているケースも多いです。さらには都市部と比べ、おおらかな患者が多く、若手外科医に手術を実施させやすい雰囲気があります。竹田綜合病院で外科研修を受けたドクターは皆、同病院での経験は、このような傾向に合致したものであるとして薦めてくださったのでした。
◇会津若松市へ
以上のような背景から、筆者は2011年11月に会津若松市まで足を運び、竹田綜合病院を見学しました。千葉県旭市からバスで東京に出て、福島県郡山市までは新幹線、そこからバスに乗り換え、6時間ほどで同市に到着しました。
震災から8カ月余り、雪に覆われた会津若松市から、表面的には震災の影響は感じ取れませんでした。病院では輿石直樹外科科長、一つ上の先輩外科医だった丸山傑医師と面会し、研修の詳細をいろいろとお聞きしました。
輿石科長は「普通の田舎の病院だよ」と謙遜しておられましたが、旭中央病院と同規模の医療機関ながら、医師同士の垣根の低さを感じさせる雰囲気がありました。手術などを見学したわけではなかったのですが、すぐにその雰囲気が気に入り、帰宅後に3年目以降の研修先の第1志望として、東大に提出しました。
そして、晴れて3年目から竹田綜合病院で勤務することになったのでした。(時事通信社「地方行政」2021年12月13日号より転載)
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(2022/01/11 05:00)
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