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なぜ医師として福島で働くのか(2)
~挫折を経験、「モラトリアム」で浜通りへ~ 公益財団法人ときわ会常磐病院 外科医・臨床研修センター長 尾崎章彦(福島県立医科大学特任教授)

 2012年4月、医師3年目になると同時に外科トレーニングのため、福島県会津若松市の竹田綜合病院に赴任しました。

 筆者は、初期研修医1年目に経験した11年3月の東日本大震災以降、震災と東京電力福島第1原発事故が東北地方にもたらした影響に関心を持っていました。それもあり、母校・東京大の外科プログラム(医師3年目から5年目にかけてのトレーニングを提供するプログラム)に参加するに当たっては、東北地方で唯一の選択肢だった竹田綜合病院を選びました。もちろん外科医として駆け出しの身でもあり、同院で十分な修練を積むことができるだろうという皮算用もありました。

2012年10月、竹田綜合病院の手術室の前、外科医としてトレーニングを開始した頃

 ◇薄れた震災への関心

 竹田綜合病院は、1928年に開設された福島県会津地方の老舗医療機関です。837床(今年1月11日現在)の病床を誇り、地域の中核医療機関として住民の生活を支えてきました。印象的だったのは、さまざまな大学出身の医師が在籍していたことです。福島県立医科大が中心となって診療体制を維持していたのは小児科など一部の科のみであり、東北大や新潟大といった比較的近隣に位置する他の大学からも医師が派遣され、診療を担っていました。外科については、山梨大の外科医局から派遣された医師を中心に構成されていたものの、東大や筑波大、北里大からも若手医師を受け入れていました。ただ、山梨大の外科医局出身だからといって優遇されることもなく、若手はお互いをライバル視しつつも、全体としては和気あいあいと過ごしていたように記憶しています。

 ところで当時の筆者は、漠然とではありましたが、将来は腹部外科の道に進むつもりでした。というのも、腹部には胃や大腸、肝臓、膵臓など、がんやその他種々の疾病を発症する臓器が多数あり、専門分野として志すには極めて間口が広いからです。現在でも外科医を志した若手医師にとって、腹部外科は最も一般的な選択肢であり続けています。前回(2021年12月13日号)触れたように、筆者はもともと外科に強い思い入れがあったわけではありませんでした。腹部以外の心臓外科や肺外科、乳腺外科を志す強い動機もなく、ほとんど疑問を抱くことなく、腹部外科を志したのでした。そして、3年間のトレーニングを終えた後は母校に戻り、さらに診療や研究で研さんを積むつもりでした(このようなプロセスを「入局」と呼びます)。東大の腹部外科は臓器別に三つの講座に分かれています(胃・食道外科、肝・胆・膵外科、大腸・肛門外科)。そのため入局に先立って、竹田綜合病院で3年かけて行う研修の間に、少なくともどの領域を専門とするかは決めなくてはならないと考えていました。

 筆者の赴任時に外科科長だった輿石直樹医師にも、そのようなぼんやりとしたキャリアのイメージをお伝えしていました。そのため12年6月から数カ月間、消化器内科で研修を行わせていただきました。目的は胃カメラや大腸カメラの手技を学ぶことです。いずれも腹部外科医として生きていくのであれば、ぜひとも習熟したい手技です。

 消化器内科での研修中に胃カメラと大腸カメラの指導を行ってくださったのは、副院長の若林博人医師です。筆者が大腸カメラの挿入に手間取っていると、若林医師はいつも助け舟を出してくださいました。手際よく大腸カメラを操り、あっという間に大腸の奥まで挿入されるのでした。乳がん診療を主ななりわいとする現在では、めっきり実施する機会は減りましたが、若林医師のおかげで大腸カメラも随分上達することができました。

 消化器内科で研修中のある月曜朝のミーティングのことでした。若林医師が、福島県・浜通り地方(沿岸部)の震災の影響を実際に確認するため、前週末に相馬地方(浜通り地方の北部)に出掛けたことを報告してくださいました。数時間かけて現地を訪問したこと、現地ではがれきなどがまだまだ山積している状況であったことなどが、お話の主たる内容でした。

 相馬地方で最大の人口を抱える自治体であり、福島第1原発の北10〜40㌔に位置する南相馬市では、震災時の津波で636人の命が失われました。自治体としての機能は現地に存続していましたが、震災の影響で発生した福島第1原発事故後、市南部の小高区は避難区域に指定され、住民は帰還できない状況が続いていました。

 冒頭でも述べましたが、筆者が竹田綜合病院での研修を選択したのは、福島県が震災や福島第1原発事故で受けた影響について関心を持ったからでした。ただ若林医師のお話を伺った際、現地訪問に強く食指が動いたわけではありませんでした。最大の理由は筆者が当時、外科医として駆け出しの段階であり、診療に加えて何かに取り組むようなキャパシティーがなかったからです。

 そのような、日々の生活に余裕がない状況は、消化器内科での研修が終わってから、さらに悪化しました。外科研修中は輪をかけて覚えることが多く、日々の手術準備や術前・術後の患者管理に忙殺されることになりました。

 また、筆者の中で震災への関心が薄れつつあった理由としては、会津若松市に赴任した12年時点で、少なくとも表面上は街に震災の影響を強く感じ取ることができなかったことが関係しているように思います。ただ、この点については、むしろ同市の方々は震災の影響を早く払拭しようとしていたという表現が正しいのかもしれません。

 というのも、会津若松市では観光業がもともと重要な産業の一つだったにもかかわらず、震災で観光客が激減したからです。震災前には年間340万人前後の観光客が訪れていましたが、11年には235万人まで減少していました。12年当時は、同市が舞台の一つとなるNHK大河ドラマ「八重の桜」の放映が翌年に予定されていたこともあり、街を挙げてPR活動が行われていました。

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