特集

なぜ医師として福島で働くのか(2)
~挫折を経験、「モラトリアム」で浜通りへ~ 公益財団法人ときわ会常磐病院 外科医・臨床研修センター長 尾崎章彦(福島県立医科大学特任教授)


2014年5月、南相馬市立総合病院で(筆者は左から2番目、上昌広医師=同3番目)、異動のあいさつをした時の様子

2014年5月、南相馬市立総合病院で(筆者は左から2番目、上昌広医師=同3番目)、異動のあいさつをした時の様子

 ◇南相馬市立総合病院へ

 そこで相談したのが上昌広医師です。現在はNPO法人「医療ガバナンス研究所」の理事長を務めていますが、当時は東大医科学研究所の特任教授でした。筆者は大学5年生のとき、授業の一環として上医師の研究室に出入りしていました。研究室では、福島県立大野病院事件(04年12月に同院で帝王切開手術を受けた女性が死亡し、執刀医が業務上過失致死と医師法違反の罪に問われたものの、無罪判決が確定した)など、医療と社会の関係の中で起きるさまざまな問題に取り組んでいました。そこで見聞きし、実際に取り組んだ問題の多くは、筆者がそれまで経験したことがないほど刺激的で、強く興味を惹かれました。

 ただ、東大の保守的な雰囲気に染まっていた当時の筆者は、定められた期間を過ごした後、徐々に足が遠のくようになっていました。それでも時折、研究室には顔を出しており、上医師が震災後に南相馬市で活動していることは知っていました。

 上医師に相談したところ、すぐに現地のパートナーであった南相馬市立総合病院の及川友好副院長(現院長)をご紹介くださいました。及川副院長は脳外科医で、震災当時も南相馬市で地域を支えてきた方です。14年6月に及川副院長と面会し、10月からの同院への異動を提案いただきました。竹田綜合病院の輿石外科科長に率直な思いを伝えたところ、研修の途中ではあるものの、快く送り出してくださいました。それまで自身が走っていたレールから大きく逸脱する決断ではありましたが、そのレールの先が袋小路に感じられた以上、学生時代に自分が覚えた直感に素直に従ってみるのも悪くないと感じていたように思います。

 退職が決まった後、竹田綜合病院での最後の数カ月間は、慌ただしく過ぎていきました。外来で経過観察を行っていた患者の中には、涙を流して別れを惜しんでくださるような方もいました。その思いはありがたく思う半面、自身の勝手な振る舞いにただただ平謝りする他ありませんでした。

 外来で診療を行っていた患者については、次の外来主治医への申し送りをするだけでは不十分に思い、患者の皆さんには自筆で手紙を送り、中途半端な時期に病院を去ることを謝罪しました。

 南相馬市に向かう道中、根拠のない期待を抱いた一方で、自分のキャリアはどのように進んでいくのだろうかという不安を強く覚えました。ただ、快く送り出してくださった先生方の気持ちに応えるため、何かしら将来の支えになるものが見つかればという思いもありました。とはいえ、この時点ではまだ「モラトリアム(猶予期間)」にすぎず、具体的なものは何も見えていませんでした。

 竹田綜合病院での外科研修は、ほろ苦い思いも多くしましたが、同僚や諸先輩方と過ごし、自身の将来を模索した日々は、現在の筆者を間違いなく支えており、今振り返っても掛け替えのないものだったと感じています。(時事通信社「地方行政」2022年1月31日号より転載)


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