なぜ医師として福島で働くのか(2)
~挫折を経験、「モラトリアム」で浜通りへ~ 公益財団法人ときわ会常磐病院 外科医・臨床研修センター長 尾崎章彦(福島県立医科大学特任教授)
2013年7月、鶴ヶ城体育館で、職場の上司とプロレス観戦
◇自信も失う
外科研修に取り組んでいた筆者ではありますが、時間がたつほどに、腹部外科を中心に据えて自身のキャリアを築いていくことに対し、自信を失っていきました。大げさな言い方をすれば、外科医として「挫折を経験した」ということになると思います。筆者が気付いたのは、自身のラーニングカーブ(学習曲線)の緩やかさです。
現在の外科領域では、さまざまな疾患について、手術を含む治療方法の標準化が進んでいます。そこでは、適切なトレーニングの下に必要な技術を身に付けることで、定められた方法で安全に手術を実施することが重視されます。そのメリットは、若手医師にとっては適切なトレーニングを継続すれば、先輩医師と同じような手技を習得できることにあります。また患者にとっては、どの病院でもある程度、均質な外科治療を享受できることにあると言えるでしょう。つまり原則として、漫画「ブラック・ジャック」のように、その医師だけが持つ神懸かった技術や独創的な術式で手術を実施することは、良しとされていないのが現代の外科治療と言えます。
一方で外科はある種、スポーツと似たところがあります。誰もが同じスピードで上達していくわけではありません。ラーニングカーブの傾きは人によって異なっており、ある外科医は上達が極めて早い一方、別の外科医は上達のスピードが遅いといったことが、当たり前のように起こるのです。そして筆者に関して言えば、研修を進めるにつれて他の外科医と比較し、そのラーニングカーブが緩やかであることに気付きつつありました。
理由はさまざまにあったと思いますが、一つには当時から同僚と比べ、手術に対する「熱量」が足りないように感じていました。それが、手術準備での詰めの甘さや手術中の粘りの乏しさ、また術後の振り返りの甘さなどにつながっていたことには、うすうす気付いていました。一方で日々の業務の中で、その時その時では、できる限りのことをしていたつもりでもありました。それだけに当時、理想と現実のギャップに焦燥感が募っていったことを覚えています。
また当時、開腹手術に取って代わりつつあった腹腔鏡手術も、そのような熱量の違いを顕在化させやすかったと考えています。開腹手術は、実際に腹部を大きく切開して手術を実施する方法です。これに対し腹腔鏡手術は、腹部に数㍉から1㌢程度の小さな穴を複数開け、そこからカメラや手術器具を挿入し、モニターに映る体内の状況を確認しながら手術を実施する方法です。
腹腔鏡手術は出血量や体へのダメージを減らすことができ、早期の退院や社会復帰につながります。当初は胆嚢結石などの限られた疾病で行われていましたが、徐々に胃がんや大腸がんなどの悪性疾患でも取り入れられつつありました。開腹手術と比べ手技が難しいとされていましたが、手術中も皆が同じ画面を見ることができ、またその画面を録画して術後に繰り返し確認することができるため、教育的な観点では優れていると考えられていました。
筆者は、この腹腔鏡の手術が総じて苦手でした。もちろん必要な技術なので、淡々とトレーニングは積んでいました。一方で同僚の中には、暇さえあれば腹腔鏡手術のビデオを見てイメージトレーニングを行ったり、腹腔鏡下での縫合の練習を積んで手術に備えたりする方もいました。当たり前ですが、そのような方とは徐々に差が開いていきます。それでも今振り返れば、先輩医師の多くはそんなふがいない筆者を引き上げてくれようとしていたように思います。
2012年10月、竹田綜合病院の検査室で検査技師さんと談笑
◇初心に返る
そのような先輩医師の一人として特に印象に残っているのが、絹田俊爾医師です。絹田医師は山梨大の出身で、そのまま同大の外科に入局し、医師3年目から竹田綜合病院で勤務を続けていました。私の6学年上の医師9年目でしたが、医師8年目のときに当時最年少で、胃がん領域で腹腔鏡外科の技術認定医を取得しており、新進気鋭の医師として福島県の内外で、その名声が高まりつつありました。また、外科のムードメーカーとして皆から慕われてもおり、既に院内でも一目置かれる存在でした。
現在でも竹田綜合病院で勤務する絹田医師の影響力を物語るエピソードとして、絹田医師の薫陶を受けて外科医になった方が数多くいることが挙げられます。筆者が現在勤務する常磐病院には福島県立医科大から、初期研修を終えた直後の医師3年目の外科医が毎週月曜日に手術助手として勤務してくださっています。彼ら彼女らの話を聞くと、この数年は各学年で数人ほど、竹田綜合病院で初期研修を行い、「絹田医師の影響を受けて外科医になった」という方々がいました。絹田医師は手術が抜群に上手なだけでなく、後輩の面倒見がとても良いのです。
そんな絹田医師が常々おっしゃっていたのは、教育が重要であるということです。例えば絹田医師の取り組みの一つとして、若手医師を特定の手術の責任者(チーフ)に充てるというものがありました。筆者には、医師4年目のときに鼠径ヘルニアの腹腔鏡手術の導入を任せてくださいました。今振り返れば、筆者は絹田医師の抜てきに応えられず、失望させてばかりだったように思います。ただ、数十例の手術結果をまとめ、医学学会で発表するような機会も与えていただきました。本当に今でも感謝していますし、キャリアにおいて重要なものを学ばせていただいた気がしています。
それは、キャリアの早い時期に何らかの技術に習熟することが重要であるということです。それによって、組織内で自身のポジションを確立できるだけでなく、周囲に目配りする余裕が生まれるからです。先の話に戻れば、筆者にとって、手術手技はそのような存在にはなり得ないだろうということを感じていたのでした。
確かにラーニングカーブが緩やかであっても、トレーニングを継続すれば、いつかは自身が目標とする手術手技に習熟できるかもしれません。ただ、筆者がそこにたどり着くまでに関わることになる患者や周囲のスタッフには「迷惑」な話です。
またキャリアを積み重ねることで、望むと望まないとにかかわらず、公私で果たすべき役割は増えていく傾向にあります。当然、自身の限られたキャパシティーのうち、手術に充てる割合は下がり続けるでしょう。全力投球でもたどり着けるか分からない「境地」を目指し、今後も研さんを積むような在り方に自信を持てませんでした。
とはいえ、絹田医師の腹腔鏡手術に当たるものが筆者にとって何なのか、当時は皆目、見当がつかなかったことも事実です。消去法で何となく「基礎研究だろうか」などと考えていましたが、学生時代を振り返れば、基礎研究に特段魅せられた記憶もなく、全く当てはありませんでした。ただ、少なくとも手術や基礎研究が自分のよりどころにはならないだろうと気付く中で、東大に戻って腹部外科の医局のいずれかに入局することへの思いは、急速に冷めつつありました。
迷った揚げ句に思い出したのは、もともと震災後の福島県の状況に関心があって竹田綜合病院を志したのだという原点です。前述の通り、外科研修中に震災に関連した活動は全くしていませんでしたが、外科医として、キャリアの次のステップが見えにくくなったことを踏まえ、「初心」に立ち返ってもよいのではないかと考えたのでした。
(2022/03/09 05:00)