女性医師のキャリア

小児外科医として働き続ける苦悩
~時代に合った医局の在り方を問う~

 多くの大学医学部と付属病院では、主任教授をトップとした「医局制度」というヒエラルキーが100年以上続いている。医局は教育、研究、臨床の広い範囲にわたって強い影響力を持ち、多くの医師は入局を余儀なくされてきた。地域に医師を組織的に配置する役割を果たす一方、さまざまな弊害も指摘され、時代に合った医局の在り方が問われている。

 東間未来医師(茨城県立こども病院・小児外科部長)はあえて医局に属さない決断をし、小児外科医としての経験を積んで実績を上げてきた。3人の子育てと急性期病院の外科臨床を両立、高い技術と信頼性で自分の居場所を勝ち取った。外科医離れにつながりかねない医局の体質が自身に与えた影響について語った。

東間未来医師

 ◇小児外科医になり海外で活躍する!

 中学生の時に新聞でマリの世界遺産トンブクトゥの遺跡と遊牧民の風景写真を見て、アフリカの魅力に引き込まれ、将来はアフリカを拠点とするジャーナリストになりたいと思っていました。高校3年の時にパレスチナの難民キャンプで医療ボランティアとして活動する女性外科医の講演に衝撃を受け、「海外で活動する小児外科医なる!」と決意を固めました。志望大学を文系から医学部に転向し、2浪して医学部に入学、卒業後は迷わず小児外科医の道に進みました。

 ◇入局せず1日も早く専門医に

 小児外科の専門医になるには、通常は外科医局に属し、一般外科の研修施設で症例を集め、5年で外科専門医(当時は外科認定医)、7年で小児外科専門医を取得するのが最短の流れとなっています。入局すると1~数年ごとに勤務施設を異動すると聞いていたため、手術件数が少ない施設などに派遣されて資格の取得や技術の修練が遅れるのが嫌で、当時の学生には比較的人気が高かった、総合診療方式「スーパーローテート」の研修施設である聖路加国際病院で外科研修医として働き始めました。

 当時の私は小児外科の何たるかも知らないまま、小児外科専門医の資格さえ取得すれば一人前になり、海外で手術ができると甘く考えていました。「1日も早く紛争地で小児外科医として活動したい」「医局派遣によって専門医取得が遅れることは避けたい」という思いから、「就職先が保証されない」「役職につけない」等のリスクを受け入れる覚悟で、入局しない決断をしたのです。

 聖路加国際病院で3年、国立国際医療センターで2年の一般外科研修を受けました。ナースステーションに椅子を並べて寝るという研修医生活を苦と思わず、患者の急変時や緊急手術時にいつも病棟にいたことで、多くの手術や急変対応を経験することができました。そして順当に卒後5年で外科認定医を取得しました。

 ◇小児外科専門医を取得

 外科研修を終えて、いざ小児外科医としての就職先を探すことになりました。外科のサブスペシャルティである小児外科の専門医資格を取得するためには、より多くの小児外科症例を経験できる施設で働くことが理想的です。けれども国公立の小児専門病院は大学医局から医師が派遣されるため、私のように医局に所属していないと、研修中に自ら就職活動を行うのは容易ではなく、どこかの小児外科医局に入るしかないと思っていたところ、当時、日本小児外科学会に一時的に設けられていたマッチングシステムという制度があることを知りました。これに応募したところ、幸運にも都立の小児病院に直接採用されたのです。医局派遣ではなく、都の職員なので異動はありません。小児専門病院に腰を据え、多くの症例をしっかり経験できたことで、2002年33歳のときに小児外科専門医を順当に取得しました。

 都立病院に入職して1~2年たった頃には、小児外科という専門領域の奥深さや面白さにすっかり魅了され、当初志していた海外の紛争地へ行く選択を放棄し、研修に没頭しました。

 ◇産休直前に病院に泊まり込み

 2003年に今の夫と出会って結婚し、04年35歳のときに第1子を出産しました。都立病院で出産する医師が初ということで医師向けの育休制度はなく、上司と話し合って決めました。つわりがひどく、その間は当直を免除してもらいましたが、日中の業務は通常通り行っていました。当時は職場の3番手で、日常の業務を中心になって行う立場だったので簡単に休むことができず、安定期に入ると手術はもちろん、重症患者も受け持っていました。その結果、ECMOの管理で産休直前の2週間、病院に泊まり込みました。さすがに脚のむくみ動悸(どうき)がひどくなりましたが、出産の4週前にようやく産休に入りました。

 つわりがひどい間は手術には入らず、主に病棟業務を担当しましたが、被ばくを受ける透視検査は避けられなかったことに非常に複雑な思いを持ちました。妊娠後期でのECMOもつらく、やはり妊娠していない人に気付きにくいことは自分ではっきりとその業務は拒否するべきでした。

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