Dr.純子のメディカルサロン

初任給30万円時代の光と影
~賃上げの恩恵を受けられない人々~

 2025年春闘で賃上げ率が34年ぶりの高水準となる5.42%(4月1日時点)に達したと報じられる中、素直に喜べない人も少なくありません。大企業と中小企業、正規雇用と非正規雇用、新卒と就職氷河期世代──それぞれの立場によって賃上げの恩恵には大きな差が生じています。

 「自分は報われていない」という感覚は、働く人のメンタルやモチベーションにどのような影響を及ぼすのでしょうか。実際に声を聞いてみると、その現実が浮かび上がってきました。

(文 海原純子)


金属労協のボードに書き込まれる2025年春闘の回答状況(3月12日、東京都中央区)

 ◇非正規・就職氷河期・不況業種の悩み

 1. 非正規雇用の40代女性Aさん

 「私は就職氷河期に大学を卒業して以来、ずっと非正規雇用です。でも最近、後輩の初任給が自分の給料を超えそうだと聞いて、やる気をなくしました。はっきり言って新入社員と顔を合わせるのはストレスです」

 2. 中小企業勤務の40代女性Bさん

 「長年、人事・総務として会社を支えてきました。でも、経営トップが代わり『人事・総務は生産性のない部門』と言われ、昇給も抑えられました。自己肯定感がどんどん低下しています。転職も考えていますが、疲れてしまって」

 3. 低賃金に悩む30代男性Cさん

 「自分は製造業正社員ですが、企業の経営状況が厳しく、基本給が抑えられて昇給も少なく、他企業の同じ世代の仲間と比べると惨めな気持ちになります。最近は友人とも会わなくなりました。今は転職を考えることで、何とかモチベーションを保っています」

 ◇「働き方改革」のはずが…管理職の負担増大

 50代前半・管理職Dさんの嘆き

 「2年前に管理職になってから給料が減りました。特にこの半年は『組合員の残業ゼロ』という指令が出て、管理職がその分の業務をこなしています。でも、残業代は出ません。精神的にも身体的にも限界です」

 「企業は『働き方改革』と称していますが、その実態は、管理職の負担を増やすことでコストを抑えているだけではないでしょうか」

 ◇雇用の不安増加

 40代女性EさんはIT関連の企業の営業職で非正規雇用。この企業は大手企業の子会社で非正規雇用社員が多く、入れ替わりも激しいので社内のコミュニケーションが取りにくいという悩みがあります。孤独感もあり、契約更新ができるかなどで更新時期が近くなると不安感が高まります。企業自体の売り上げなども厳しい状況で、売り上げ目標と雇用を確保できるかの両方がストレスになっています。

トヨタ自動車の入社式(4月1日、愛知県豊田市)

 ◇低収入、不安定雇用はメンタル不調のリスク

 収入の低さとメンタル不調には関わりがあるのでしょうか。

 2015年に「厚生の指標」62巻11号に発表された堤明純氏らの論文は、労働者の健康格差のメカニズム解明を目的として、男性7645人、女性2241人を対象に収入とメンタル不調リスクの解析を行っています。堤博士らは、収入を「299万円以下」から「1500万円以上」の6段階に分け調査した結果、男女とも低収入はメンタル不調と関連しており、低収入の場合、メンタル不調に陥るリスクが有意に高いことが分かりました。

 また、職業の不安定性について、「職の将来の安定性、季節雇用」「過去1年間の失業の危機」「今後2年間の失業の可能性」を尋ねて調査したところ、職の不安定な人たちはメンタル不調の割合が男女ともに高いことが分かりました。

 男性の場合、職が不安定な人たちは「41歳以上の壮年層」「低職位」「高学歴」「週労働時間60時間以上」という傾向が見られました。まさに就職氷河期に大学を卒業しても正社員になれずに非正規雇用で長時間労働をしている場合などがリスクが高くなることも推察されます。

 ◇「恵まれていない」思い、うつのリスク高める

 一方、周りの人の所得に比べて自分はどうかという相対的な格差感は気分にどのような影響を与えるのでしょうか? 

 2017年にハーバード大学のIchiro kawachi博士らが、日本の65歳以上の8万3100人(男性4万38人、女性4万3062人)に相対的略奪(周りの人と比べて自分が不利な立場にあると感じる)とメンタル不調の関連を調査した論文を発表しています。実際の生活水準が一定以上であっても、他人と比べて“自分は恵まれていない”と感じると、心理的なストレスや不満が生じます。これは相対的略奪とされています。例えば、年収が500万円の場合、周りの人が300万円程度なら「自分は十分」と感じ、周りの人が1000万円なら「自分は足りていない」と感じるというものです。

 実際の所得の金額ではなく周りの人との比較が幸福感やメンタルヘルスに影響するというものですが、kawachi 博士らの発表では、相対的剥奪の感覚が強いほど、うつ症状のリスクが上昇し、 男性では相対的剥奪が10万円増えるごとに、うつリスクが1.07倍、女性では1.05倍になり、女性の場合は、高所得層でも周りの人と比べて相対的略奪を感じるとメンタルへの影響を受けるということです。

 ◇トランプ関税不安の今こそ、雇用の安定と格差是正を

 世界経済の今後が見通せない今、働く人のメンタルをいかに守るかは企業利益と直結していると思うのですが、その視点は後回しにされる傾向があります。

 企業の利益を追求するあまり、働く人のメンタルヘルスが軽視されていないでしょうか。

 初任給の引き上げだけでなく、

 • 氷河期世代や非正規雇用者の雇用安定

 • 不公平感の是正

 • 相対的略奪の改善

 などの視点を持たなければ、多くの働く人が「病気ではないが、元気とは言えない」状態に陥ってしまいます。

 「賃上げの恩恵を受けられる人」と「受けられない人」の間に生じる分断の改善が不可欠だと思われます。(了)


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