ダイバーシティ(多様性) Life on Wheels ~車椅子から見た世界~
波乱万丈のアメリカ留学
~多様性と可能性の国で~ 【第6回】
こんにちは。車椅子インフルエンサーの中嶋涼子です。
高校卒業後、夢だったアメリカ留学が現実になりました。2005年5月に母と共にロサンゼルスに渡り、7年間に及んだ留学生活がスタート。日本よりハード面でもハート面でもバリアフリーが進んでいる国で、さまざまな出会いがあり、可能性も大きく開けましたが、車椅子での学生生活は波乱万丈の日々でした。
エルカミーノカレッジの卒業式。文化人類学のクラブの仲間と
◇念願の留学生活
高校3年生の時の進路相談で、大学受験はせず、アメリカに留学をすると宣言して以来、私はアメリカ留学のことしか考えていませんでした。まずはエルカミーノカレッジというコミュニティーカレッジ(短大)で学んでから、全米トップのフィルムスクールである南カリフォルニア大学(University of Southern California、以下USC)に編入することを目指しました。
ロサンゼルスに到着するとすぐ、メールで見学の予約をしておいた短大の近くのアパートを何軒か見に行き、入り口やお風呂に段差がなく、トイレも車椅子で十分に入れる大きさの部屋を見つけました。アメリカではDIYをする人が多いので、ホームセンターなどでトイレの手すりやお風呂用のシャワーチェアも売っています。ホームセンターに母と通い、アパートの中をDIYでバリアフリーにしました。まだ英語をしゃべれない時期に母と2人で奮闘した日々は、かけがえのない経験であり、宝物です。
ピアスだらけだった社会学の先生
ロサンゼルスでの7年間のうち、最初の5年間は母と一緒に暮らしました。母も語学学校に入学し、短大への送り迎えをしてくれました。
留学先の大学や住居は、すべて自分で本やネットを使ってリサーチしました。海外留学のあっせん会社はいろいろありますが、自分で調べれば分かることも多いので、できるだけ自分で調べたり、ネットで現地の人とやりとりして情報を集めたりすることをお勧めします。アメリカの大学には障害者サポートをしてくれるオフィスが必ずあり、そこでいろいろなサポート情報を得ることができます。車椅子や障害がある人が留学をする場合、バリアフリーな住居や大学の施設を探す必要があるので、私は今後、そういったサポートをしたいと思っています。
水泳のクラスが楽しみの一つになった
◇多様な人々の存在
短大に入って驚いたことは、キャンパスにたくさん車椅子ユーザーがいたこと!日本と違ってアメリカの大学には、いろんな人種、いろんな年齢の学生がいるので、車椅子の人だけでなく、おばさんやおじさん、いろんな国の人たちと仲良くなりました。
さすがアメリカ、と思ったのが、仲良くなった車椅子の黒人男性が「流れ弾に当たって脊髄損傷になっちゃって」と話していたり、元軍人が「任務中にけがをして歩けなくなった」と言っていたりしたこと。いろいろな背景の人たちと話すことで、私の視野はどんどん広がっていきました。
そして、さらに感動したのは、授業プログラムの中に「Adapted Physical Education(障害者用体育)」のクラスがあったこと!
私は中学・高校時代は体育の授業は見学するか、できる範囲でしか受けられませんでした。小学校の時に野球部に入ろうとしたら、「車椅子だと危ないから」と止められたのが悔しかった。水泳もいつも見学。だけど、アメリカの短大には「Adapted Physical Education」の一つとして水泳のクラス(Adapted Swimming)があったのです。
以前、パラリンピック水泳選手の成田真由美さんの講演会を聞きに行った際に、成田さんから水泳を勧められて、やってみようと思ったのですが、日本では車椅子で入れるプールがなかなか見当たらず、心が折れて、プールに行くことを諦めていました。そんな自分が「もう一度泳いでみよう!」と思うことができました。
水泳に挑戦したことが南カリフォルニア大学の学費免除につながった
◇体育の授業で水泳に挑戦
早速、登録して授業に行くと、なんと先生は元気な車椅子のおじさま。サポートしてくれる人もたくさんいました。みんな優しく対応してくれたのですが、当時の私は片言の英語しか話せず、しかも歩けなくなって以来、初めてプールに入って、いきなり「泳いでみて」と言われ、パニックになって溺れてしまい、右肩を脱臼しました。
その日はそのまま病院へ。片言の英語で「My shoulder is take off」と必死に訴えたら、脱臼だと伝わりました。人間、緊急事態に陥ると、普段は恥ずかしくてしゃべれない英語を何とかしゃべろうとするんですね。この時、脱臼は英語で「dislocation」と言うことも学びました。
脱臼騒動から2週間後には肩も治り、先生もサポートしてくれる方々も言語の壁を乗り越えながら私に泳ぎを教えてくれました。結果、25メートルを何往復もクロールで泳げるようになり、水泳の先生には、「涼子!パラリンピックを目指せるよ!」とまで言ってもらえたのです。
その後、先生が障害者スポーツで業績を上げた学生が受けられる奨学金の推薦文を書いてくれたおかげで、憧れのUSCに入学してから、学費を全額免除してもらえることにもつながりました。右肩の脱臼癖はいまだに治りませんが、あの時、水泳に挑戦して本当によかったと思っています。
自由なアメリカ生活を満喫して激太りしていた頃
◇女友達と「連れション」
そして、夢だったことが、もう一つかないました。それは、女友達との「連れション」です。
日本では友達とトイレに行っても、男でも女でもない障害者用のトイレにしか入れなかったので、いつも自分だけ入り口が別。そのため、「自分はみんなと違う」という思いがいつもあったのですが、ロサンゼルスには「障害者用トイレ」というものが存在しませんでした。女性用、男性用のトイレの中に、それぞれ広くて手すりの付いたトイレがあり、そこに車椅子の人も入れるのです。
どんなに小さなお店でも、トイレがあれば必ず車椅子でも入れます。友達と話しながらトイレに行くという、憧れの連れションができたことがすごくうれしくて、そんな当たり前の行動も日本ではできなかったのだと改めて感じました。
こうして、みんなと同じ生活ができることで、私は障害者であることを、どんどん忘れていきました。社会がバリアフリーだと、こんなにも心地よく生きることができる、一人でも不自由なく生きていくことができると、少しずつ自信を付けることができました。
文化人類学にはまり、クラブにも入った
ハード(環境)もハート(心)もバリアフリーなアメリカ生活をエンジョイし過ぎて、アメリカ人と同じように毎日メキシカンやハンバーガーを食べた結果、留学して2年たった頃には体重が10キロも増加。日本に一時帰国した際に、日本人女性がみんな細くておしゃれをしている姿を見て、焦りました。その後、ふとYouTubeで安室奈美恵さんの歌を聴いて憧れるようになり、過酷なダイエットをして半年で元に戻しましたが。
◇2年間真面目に勉強
短大の授業の方は想像以上に難しく、私の人生の中で一番真面目に勉強をした2年間でした。アメリカ人の倍以上勉強しないとついていけず、パーティーに誘われても、いつも断っていたので、「ノリが悪いね」と嫌がられたほどです。
授業で分からないことは授業後に先生に、つたない英語で質問して真面目な学生をアピールしました。大学編入に必要な短大の一般教養で、たまたま受講した文化人類学のクラスがすごく面白くて、クラブにも入りました。クラブのイベントに参加をすると成績が上がる点数をもらえるというので、初めは点数欲しさに行ったのですが、メンバーがみんな温かく、いつの間にかはまってしまったのです。
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文化人類学のクラブにはいろんな人種の人がいたし、他の国に興味を持つ人も多く、日本人であり、車椅子に乗っている私を受け入れてくれる人ばかりでした。そんなクラブのメンバーと一緒に週末にアフリカ系の人々のお祭りに行ったり、民族衣装やダンス、食べ物の由来を研究したり。意外と真面目な学生でした。
2年間の短大生活を終え、成績優秀者として卒業すると、USCから合格通知が届きました。ところが、留学前から夢見てきた憧れの大学に合格できたことで私は満足してしまって、いざ授業が始まると、留学生活で最大の危機を迎えることになったのです。(了)
中嶋涼子さん
▼中嶋涼子(なかじま・りょうこ)さん略歴
1986年生まれ。東京都大田区出身。9歳の時に突然歩けなくなり、原因不明のまま車椅子生活に。人生に希望を見いだせず、引きこもりになっていた時に、映画「タイタニック」に出合い、心を動かされる。以来、映画を通して世界中の文化や価値観に触れる中で、自分も映画を作って人々の心を動かせるようになりたいと夢を抱く。
2005年に高校卒業後、米カリフォルニア州ロサンゼルスへ。語学学校、エルカミーノカレッジ(短大)を経て、08年、南カリフォルニア大学映画学部へ入学。11年に卒業し、翌年帰国。通訳・翻訳を経て、16年からFOXネットワークスにて映像エディターとして働く。17年12月に退社して車椅子インフルエンサーに転身。テレビ出演、YouTube制作、講演活動などを行い、「障害者の常識をぶち壊す」ことで、日本の社会や日本人の心をバリアフリーにしていけるよう発信し続けている。
中嶋涼子公式ウェブサイト
公式YouTubeチャンネル「中嶋涼子の車椅子ですがなにか!? Any Problems?」
(2021/10/04 05:00)
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