Dr.純子のメディカルサロン

世界のへき地で手術と技術指導に奔走する眼科医 内藤毅・徳島大学特任教授

 ◇アフリカでも

 
海原 ネパール以外の国々へも活動の幅を広げていますね。

 内藤 06年に駐日モザンビーク共和国大使と面談する機会があり、モザンビークでの眼科医療支援を要請されました。

 07年に現地視察を行い、人口約2500万人に対して、眼科医が15人程度という、極めて過酷な状況であることを知りました。ちょうど1984年当時のネパールと同じ状況であり、アイキャンプを計画しました。

 現地での活動を行うに当たって、活動団体の存在が不可欠となり、「アフリカ眼科医療を支援する会(AOSA=Association for Ophthalmic Support in Africa)」を設立しました。

モザンビークでの術後回診

モザンビークでの術後回診

 モザンビークでは2008年から毎年、医療活動を行っています。現地の眼科医の技術指導をしながら、現在までに約1800の白内障手術を行いました。

 ◇徐々に彼らだけで


 海原 1800はすごいですね。

 内藤 11年からはエジプトに4回渡航し、徳島大学に留学したエジプトのソハーグ大学の眼科医たちを現地指導しています。

 エジプトでは、網膜硝子体手術ができる医師はカイロなどの大都市に集中し、ソハーグのようなエジプト南部では、網膜硝子体手術のできる眼科医は極めて少なく、非常に困難な状況です。

 そこで現地で技術指導することとなりました。私の現地滞在中には毎日10例程度の硝子体手術を行い、技術指導しました。

 最初の頃は、ほとんどの症例を私が手術しましたが、徐々に彼らだけで手術できるようになりました。

 海原 現地の医療発展に大いに貢献されたのですね。

 内藤 硝子体手術件数の増加に伴い、病院の収益も増加し、新たに手術機器を購入して、設備を充実することができました。

 今では、エジプト南部で網膜硝子体手術ができる病院として、貴重な存在となってきています。徳島大学で勉強した後、学んだことを生かして、母国で精力的に働いているのを見るのは誠にうれしいことです。

 先日は、初めてザンビアに行きました。現地の医療状況の視察のためで、今後、現地の方々と相談し支援を行う予定です。

 ◇ベース演奏も「すご腕」

 
海原 先生が医師になり、眼科を選ばれた理由をお聞かせください。

 内藤 もともと、カメラや天体望遠鏡などの光学器械が好きで、映像に興味がありました。眼はカメラとよく似た構造なので、特に興味が湧きました。

 海原 先生はベーシストでもいらっしゃいますね。学生時代からですか。ネパールでライブ活動はやりましたか。

 内藤 中学生時代にオーケストラ部に入り、初めてベースを弾きました。本格的にベース奏法を勉強したのは、徳島大学入学後にオーケストラ部に入部してからです。

 その時期から、当時の大阪フィルハーモニー交響楽団の首席奏者に師事し、レッスンに通って勉強しました。現在は徳島交響楽団に所属しています。

 ネパールでは、ベースが見つからなかったので、インドの弦楽器のシタールを習いに教室へ通っていました。ネパールでのライブの経験はありません。

 海原 国際的なベーシストの安カ川大樹さんから、内藤先生は「すごい腕前」とお聞きしました。

 内藤 クラシックでは、徳島交響楽団の演奏会が年に3回程度あります。ジャズは徳島ジャズストリートというジャズフェスティバルに年2回出演しています。行きつけのライブハウスのセッションにも参加しています。

 海原 本日はお忙しい中、ありがとうございました。後進の医師の教育を行い、医療の恩恵の少ない地域で支援を続ける素晴らしい活動のお話。お聞きするうちに、エネルギーをもらったような気がしました。

(文 海原純子)



 内藤 毅(ないとう・たけし)
 1981年徳島大学医学部医学科卒、同学部付属病院眼科医員。同学部眼科助手などを経て、84年ネパール・トリブバン大学講師。88年徳島大学医学部眼科講師となり、文部省在外研究員として米カリフォルニア大学サンフランシスコ校・プロクター眼研究所へ留学。徳島大学医学部眼科助教授、同大学大学院ヘルスバイオサイエンス研究部眼科学分野准教授を経て、2015年から徳島大学特任教授。専門は網膜硝子体疾患、硝子体手術、眼感染症


 

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