Dr.純子のメディカルサロン

「喪失」 鏑木 蓮


 事件の裏には、妻に称賛され認められたい夫、夫から愛されているという実感が欲しい妻、妻から得られない安らぎを愛人に求める夫、母に愛されたいにもかかわらず不安定な母の母親役をしなければならない娘、夫から得られない愛を娘に求める母親、社会的地位や体裁を守るために生きる弁護士の葛藤が隠されていて、大橋はその絡み合った葛藤の糸を一本、一本探り、ほどきながら事件の真相に迫っていきます。

 糸が少しずつほぐれていくごとに、読者は夫婦、親子、友人、愛人の間で揺れ動く思いを想像したり共感したりするでしょう。そして人はなぜ一番分かってほしい人にありのままの自分の気持ちを伝えられないのだろうと思ったりするでしょう。葛藤の緊張感の中でかろうじて保たれてきたバランスは、犯人のわなで一気に崩れ、一人の命が失われ、関係する者それぞれの心に大きな喪失が生まれます。

 大橋は葛藤の糸をほどきながらその喪失の大きさを共感します。しかし大橋は、喪失は消滅ではないことに気が付きます。壁にぶつかり何かを失ったときこそ、人は大事なものが何かに気付く。壁にぶつからなければ直視しようとしないありのままの現実と向き合うことが新しい一歩につながる。

 悲惨な事件ですが読後感が心地よく希望が持てます。そんな作品です。

(文 海原純子)

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