特集

つぶれる病院「No.1」から起死回生
熊本総合病院の軌跡と奇跡〔1〕

 ◇前病院長が急死

 八代総合病院(現・熊本総合病院)開設の5年後に熊本労災病院が開設された。当初は24床の小さな病院だったが、どんどん規模を拡大し、410床の総合病院に成長していた。

 「新臨床研修制度が導入され、さらに医師の数が足りなくなると、大学が医師を派遣してくれなくなりました。当院ではなく労災病院の方を優先するようになったのです。努力している病院とそうでない病院、その違いは明らかで、大学からの低評価も仕方がない状況でした」

 そんな折、前病院長が就任後わずか4カ月で突然死してしまった。当時、熊本市立熊本市民病院の外科医として前病院長の主治医を務めていたのが、島田氏だった。2年前に胆のうがんの手術をし、その後も定期的に診察を続けていたが、再発もなく、体調には全く問題がなかったはずだ。「病院の赤字を何とかしなければならない。労働組合との折衝もある上に、医師はどんどん辞めていく。その精神的負担は想像を絶するものがあったと思います」

 ◇「お前も死ぬかも」

 その時、本部理事長から直々に島田氏に声がかかったが、「あんなところへ行ったら、お前も死ぬかもしれない」と周囲からも反対され、島田氏は悩んだ。

 島田氏にこの白羽の矢が立ったのは、4~5年前にこの病院の外科部長をしていたときの実績があったからだ。業績悪化を食い止めるために当時の病院長が熊本大学の消化器外科の教授に有能な外科医を派遣してほしいと切望。送り込まれたのが島田氏だった。年間350件を執刀していた島田氏の外科医としての実績はすでに地域の開業医の間でも知られており、紹介患者も急増、手術件数も飛躍的に伸びた。

 「ずっと、この病院で外科医をするつもりはありませんでした。大学に戻って、もっと広く医療に貢献したいと思っていましたから」。1年で外科部長を辞め、熊本大学に戻った島田氏は外科医として日々手術にあたるだけでなく、多数の学術論文を作成したり、手術器具を開発して特許を取得したり、文部科学省新医療技術開発プロジェクトの代表を務めたりするなど、精力的に活躍していた。

老朽化した病院

 大学で消化器外科教授への道も考えたが、残念ながら教授には選ばれず、当時、最も必要とされていた熊本市民病院の外科部長に就任。その1年後に、前述のとおり本部理事長からオファーを受けた。

 ◇火中の栗を拾う

 1カ月ほど悩んでいたときに、10歳年上の尊敬する先輩の一言が島田氏の背中を押した。「『お前でダメならあの病院はもうダメだ。行ってやれよ、骨は拾ってやるから』と言われて、他の選択肢は全くなくなりました」

 火中の栗を拾う覚悟を決めて赴任したその日に、運転手から冒頭の言葉。病院に着いても、新しい病院長を歓迎する雰囲気はなかった。「泊まり込んで必死にやるよと頼んでおいたのに、その日に泊まる宿舎も用意されていなくて、この病院はいったいどうなっているのかと改めて愕然としました」

 誰が病院長になっても、この病院は変わらない。職員たちのまなざしがそう物語っていた。(中山あゆみ)(このシリーズは毎週金曜日に配信します)

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