Dr.純子のメディカルサロン

地下鉄サリン事件、被害に遭った医師はどう行動したか~現場で、搬送先の病院で~ 勝俣範之・日本医科大学教授

 日本医科大学の勝俣範之教授は、腫瘍内科医として多くの患者さんの信頼を集めています。国立がんセンターから日本医科大学武蔵小杉病院に移り、腫瘍内科を立ち上げた勝俣先生とは、何度も学会やシンポジウムでご一緒したのですが、個人的なお話を聞いたことはありませんでした。
 ですから、勝俣先生があのサリン事件で地下鉄の八丁堀駅構内で被害者の救急処置に当たった後、ご自身もサリンの被害を受け、救急搬送されたことを偶然に知り、本当に驚きました。被害を受けながら、どうして後遺症もなく、今活躍していらっしゃるのか。死と向き合うという体験は、医師としてのキャリアにどう影響したのか。ぜひ知りたいと思い、先生に取材をお願いし、病院を訪ねました。

(文 海原純子)

 勝俣先生(右)と筆者
 海原 先日サリン事件の実行犯の死刑が執行された時、偶然ネットで先生がサリン事件の被害者だということを知り、衝撃を受けました。被害者であることも衝撃でしたが、その後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)にもならず、仕事を続けられるのはどうしてなのか、というのが素朴な疑問でした。

 勝俣 皆がPTSDになるわけではないですからね。

 海原 しかし、あれだけの事件の現場にいたわけですから。これはただ者ではない、話を聞かなくては、と思いました。

 勝俣 いえいえ、普通の人です(笑)。

 1995年3月20日、月曜日。当時、国立がんセンター中央病院のレジデント(研修医)として勤務していた勝俣先生は、日比谷線で築地にある同センターに向かう途中だった。午前8時を過ぎた頃、電車が八丁堀駅で緊急停車し「ホームで人が倒れています。医療関係者はいませんか」という車内放送が流れてきた。勝俣先生はホームに降りた。

 周りでどんどん人が倒れていく

 勝俣 最初、ホームに倒れて口から泡を吹いている人を目にしました。瞳孔を見たら縮瞳していて、てんかんかと思い、そこで、その人を介抱して、心臓マッサージして、人工呼吸をマウスツーマウスでやって。でも、やっている最中に周りでどんどん人が倒れていくんです。

 過激派が何か毒薬でもまいたのかなと思いました。でも、爆発の音もしないし、臭いもしないし、全く分からないのです。しようがないので、その人を介抱して15分ほどして救急隊が到着して、救急隊にお任せしました。

 自分も、しようがない、こんなひどい騒ぎになっているから、電車も止まっているし、歩いて病院まで、朝勤務でしたから、歩いて行こうかなと思って、立とうと思ったら立てないんです。足に力が入らない。手足もしびれてくる。でも、息はできるんです。意識もしっかりしている。視界が暗くなる。たぶん瞳孔が縮瞳しているから暗くなるんです。歩けないので、救急車を呼んでくれないかって頼みました。

 海原 そのまま倒れたのですか。

 勝俣 そうです。で、救急車で運ばれました。でも、怖いという印象はないんです。何が起こったのか、さっぱり分からない。たぶん救急車の中でも意識はしっかりしていたし、呼吸もしっかりしていました。たぶん何かの毒物を吸ったに違いないと思ったんです。でも、えらい騒ぎでした。

 僕が乗った電車は八丁堀駅に止まったんです。サリン電車というのは日比谷線の築地駅に止まったんです。築地駅にまいたのが林泰男元死刑囚で、一つ前の電車なんですよ。サリンを吸った人が、気持ちが悪くなって八丁堀駅で降りて、そこで倒れたんですね。

 海原 八丁堀駅も大変だったのですね。

 勝俣 八丁堀も相当な人が倒れていました。一番重症な人、泡を吹いていたのはその人だけでした。たぶんサリンの一番近くにいた人なのでしょう。その方は、後で聞いたんですけど、慶応病院に運ばれて亡くなったそうです。

 僕は救急車で運ばれて、救急車の中で、どこに運びますかって聞かれたんです。聖路加病院は築地あたりでは救急病院なんですけど、聖路加病院に行っても、たぶん診てくれないだろうと。相当な数の人だからと思ったので、国立がんセンターへ運んでくれと言ったんです。

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