Dr.純子のメディカルサロン
地下鉄サリン事件、被害に遭った医師はどう行動したか~現場で、搬送先の病院で~ 勝俣範之・日本医科大学教授
海原 でも、サリンのことってみんな知らないし、後の症状って分からないから、例えばまたしびれがこないかとか、そういうことはあまり考えなかったのですか。
勝俣 文献を全部読んだ知識があるので。大丈夫ということが分かりましたから。中には、しびれがあったり、目が少し暗いのがずっと続いている人はいるようなんですけど。
海原 日常生活にはそんなに支障がないみたいですね。
勝俣 ほとんどないです。
海原 やっぱり、しっかり知識を持つって大事ですね。
勝俣 知識って大事です。ただ怖い怖いと、イメージだけあると、それで精神的に参ってしまうかもしれません。僕は論文を全部読んで、絶対大丈夫ということが分かって。
海原 正確な知識が裏付けになるんですね。
勝俣 本当はもっと休めとも言われました。勤務に出てきた時に大丈夫かとか、後遺症はないのかとか、散々みんなに言われましたけど、うちで一人でいても、暇でしようがなかったですから。社会から取り残されたっていう意識もありました。社会から取り残されて、自分は何も社会に貢献していない、それはやっぱりつまらないですよ。逆につらいです。
海原 全部、先生のその後の仕事に生かされていますね。音楽活動はいつからなんですか。
勝俣 音楽は学生の時からフォークソングをやっていて。最近また始めたんです。私の患者さんに詩を書いてくれる人がいて。いい詩を書いてくれるんですよ。がんサバイバーの方ですけど。私が曲を付けて。意外といい音楽ができたんです。
海原 9月に横浜でライブをなさるんですね。これもミュージシャンの患者さんとご一緒ですね。先生の患者さん、皆さん明るくて、すごいですね。
勝俣 そうですね。どちらかというと患者さんからパワーをもらえます。患者さんのパワーの方がすごいです。 取材後記
取材をしながら勝俣先生は「選ばれた人なのだ」と感じた。死と向き合うことは医師として究極の体験だと思う。そうした体験をするように選ばれた医師であり、そこから学ぶことができる医師であり、そのことを、後に苦しむ人の手助けにできる医師なのだと思った。
全く未知の毒物に対する対抗手段は、正確な情報と知識だ。そして、分からない事への不安を共に分かち、支え合い、未知を正確な情報で埋めていく作業が身体と心を支える。
患者さんを少しでも社会参加できるようにすることは大事だ。勝俣先生は、闘病を人生の全てにせず、楽しみをつくり出しながら、音楽などで気持ちを表現する場を患者さんとともにつくる活動をしている。腫瘍内科医としての、そうした活動の素晴らしさの原点が、この大変な体験にあるように感じた。
日本医科大学武蔵小杉病院の腫瘍内科外来のドアには、勝俣先生の似顔絵が貼ってある。外来のドアに教授の似顔絵が貼ってある大学病院は、私はここ以外に知らない。(海原純子)
勝俣範之(かつまた・のりゆき)
山梨県富士吉田市生まれ。1988年富山医科薬科大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院内科勤務を経て2004年ハーバード大学生物統計学教室に留学。ダナファーバーがん研究所、ECOGデータセンターで研修後、国立がんセンター医長。11年10月から日本医科大学武蔵小杉病院腫瘍内科教授。
(2018/09/21 10:50)