一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏

(第10回) 新天地で年300症例 =失意の退職、気持ち固める

 その日は予定通り慈恵医大に出向き、すぐ採用が決まり通勤定期の証明書まで受け取った。しかし、朝見た求人広告が気に掛かり、定期を購入する前に新東京病院に電話した。転送された電話口に出たのが、心臓外科医では知らない人はいない須磨久善氏だった。

 「『ああ、君か』と言われたので、びっくりしました。僕は目立とう精神が旺盛。学会で須磨先生の発表があると、『ハイ、ハイ』と手を挙げて質問していたので覚えていてくれた。向こうにしてみれば、飛んで火にいる夏の虫だったわけです」

 「秋葉原のうなぎ屋で、妻と食事をすることになっている。来るように」と電話で言われ、出掛けて行った。
 須磨氏は店内で、天野氏に新東京病院で働いてほしいと切り出した。須磨氏の妻も「あなた、久善の若い頃に似ているわねえ」と後押し。

 しかし、天野氏は1日だけ待ってもらえるよう頼んだ。

 「夜は気持ちが大きくなるし、アルコールが入った時に物事を決定してはいけない」と天野氏。帰宅してすぐ、世話になった人たちに電話で相談した。全員が「やめろ。とんでもない病院だ」と言う。過去に悪評があり、古いイメージが強く残っていたようだ。

37歳の天野氏(1992年撮影)
 しかし、天野氏は「それだけ悪いなら、それ以下はない。自分が何かいいことをすれば、認められるだろう」と割り切り、翌日須磨氏に新東京病院で働く意志を伝えた。慈恵医大の教授も「若い人は自分のやりたいことをやるのが一番」と背中を押してくれた。

 新東京病院はベッド数200床の中規模民間病院。亀田総合病院や小児医療センターとは比較にならないほど、施設も設備も貧弱だった。しかし、新設された心臓血管外科では、須磨氏の元に患者が次々紹介された。手術で良好な結果が出ると病院の評価も上がり、都内の大学病院や地方からも患者が集まった。

 5年目の手術数は年間300例を超え、成人の心臓バイパス手術の症例数は全国1位。この9割を天野氏が執刀した。「来た当初、年間100例できればと思っていました。それが3倍で自分でもびっくりしました」

 患者のためにベストを尽くし、結果を出す。天野氏を含め、そこで働くスタッフが同じ方向に向かって努力した結果だった。(ジャーナリスト・中山あゆみ)


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