一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏

(第10回) 新天地で年300症例 =失意の退職、気持ち固める

 「もう現場に出てこなくていい」。父親の葬儀を終え、1週間ぶりに千葉県鴨川市の亀田総合病院に出勤した天野氏は、上司から突然言われた。事実上の解雇通告だった。父は上司が執刀した手術後、わずか3年で縫合不全を起こし、別の病院で手術を受けたが死亡した。上司も心中複雑だっただろう。2人の関係は限界に来ていた。

 「今だったら地位保全で訴えれば通るでしょうが、潮時かなとも思いました」。天野氏は結婚したばかりだったが、妻はもともと同じ職場で働いており、夫と上司の関係悪化は知っていた。「あなたが決めたことだから」と、退職にすんなり理解を示してくれた。

 敬愛していた父親を亡くし、職も失った。この時34歳。結婚して長男が生まれ、初めての正月を迎えたばかりだった。

 失意の中でマンションを引き払い、現在の理事長である亀田隆明氏にあいさつに出向いた。すると、「何があっても心臓外科医を続けろ。お前が辞めたら、日本の損失になる」と言葉を掛けられた。職場が変わっても、心臓外科医として突き進む気持ちは固まった。

 最初は実家近くの埼玉県小児医療センター心臓血管外科で、小児心臓病の研修を受けながら次の職場を探した。「無給の研修医でしたが、父が亡くなって1人になった母の面倒を見るのにも都合が良かった。生活費は亀田総合病院と交渉して出してもらった給料数カ月分と、アルバイトで賄いました」

 その後、慈恵医大付属病院心臓外科への入局を勧められた。教授にあいさつに行く前に、小児医療センターに立ち寄った。医局に置いてあった医師向けリクルート雑誌が目に留まった。千葉県松戸市の新東京病院の求人広告に「心臓血管外科医を求む」「米国帰りの医師を優遇」とあった。

 「留学経験はないが、亀田総合病院では、米国帰りの上司に米国式の教育を受けていた。チャンスがあるかもしれないと思いました」

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一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏