女性アスリート健康支援委員会 日本女子初の五輪メダリスト

スポーツを通じ周囲を変える
~有森裕子さんが語るマラソン人生(3)~

 ◇カンボジアでの体験が今の活動の根幹に

 1992年バルセロナ五輪女子マラソンで銀メダルを獲得し、マラソンでは日本女子初のメダルを獲得した有森裕子さん。4年後のアトランタ五輪でも銅メダルを手にし、2大会連続のメダリストとなった。陸上との出会い、トップランナーになるまでの道のり、女性特有の生理の問題、障がい者スポーツとの出会い、副会長を務める大学スポーツ協会(UNIVAS)などについて話を聞いた。

 中長距離の名指導者だった故小出義雄さんに「体の素質はないが、一番大事なのは『やる気』。根拠のない『やる気』に興味がある」と言われてスタートしたマラソン人生。有森さんは「待っているのではなく、自分から動くことの大切さ」を説いた。インタビューには、スポーツドクターの先駆けとして長年活動し、陸上の強化で有森さんとも交流がある一般社団法人「女性アスリート健康支援委員会」の川原貴会長もオブザーバーとして参加した。

有森裕子さん

有森裕子さん

 川原会長 有森さんは、障がい者スポーツをはじめとして、いろいろな活動をされていますね。

 「私は「スペシャルオリンピックス日本」、「ハート・オブ・ゴールド」という、スポーツを通じて国際的な活動をする組織の代表でもあります。人間が生きる上で、感動を生み出すことができるスポーツは大事な役割をいっぱい果たすことができると思います。そして、これまで私は自分の人生の豊かさを育むためにスポーツを使って生きてきました。今度はスポーツを使って人を喜ばし、周囲を変えていけるということで「ハート・オブ・ゴールド」の活動をスタートし、カンボジアに行ったことから始まります。

 ―カンボジアと言えば、1975年のポル・ポト政権以降の虐殺や内戦によって、多くの人たちが命を落としました。93年にカンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視下で議会選挙が行われ、やっと国情が安定化の方向へ歩み始めました。

 「そうです。そういう状況下で、『対人地雷で手足を失ったカンボジアの人たちの自立支援を手伝ってもらえないか』という話が96年にありました。アトランタ五輪が終わった後でした。アジアで初めてのチャリティーハーフマラソンを開催するということでした。『マラソンランナーなら手足の重要性はよく分かるでしょう。これまで自分のために走ってきたのだから、今度は人のために』と言われて、賛同・活動することになりました」

 ◇忘れられなかった子どもたちの目の輝き

 「その大会は『アンコールワット国際ハーフマラソン』という名称で、私はゲストという立場でしたが、そこで初めて対人地雷のことを知りました。対人地雷で人は殺されはしないが、手足を失って生きる気持ちを無くさせる最悪の兵器です。壊されてしまっている気持ちを復活させるには、どれだけスポーツが有効かを関係者から聞かされましたが、1回目ではよく分かりませんでした。手足の無い子どもたちがたくさんいて、その子どもたちを抱いた親が物乞いをしているというような状況でした。しかし、子どもたちの『生きたい』という欲求のある目の輝きの強さを感じました。その表情は、ある意味ステキで忘れられません。日本の子どもたちには無い輝きがあり、それがまぶたに焼き付きました」

 ―その翌年も行かれたのですか。

 「97年に『またやる』ということで行きました。その頃、政情不安でしたから、『危ないのでは』と正直不安になりましたが、『私にできることがあるのなら』という気持ちと、1回目の子どもたちの目が気になっていましたので、恐る恐るながらカンボジアに行きました。すると、1回目の光景とは全く違い、過剰な物乞いなどはなく、大会を再びやるということで、子どもたちが楽しみにして待っていました。前日に練習までしていました。『これはすごい変化だ』と。たった1度のマラソン大会が、子どもたちをこんなにも変えるものなのかと感じました」

 「当時、緊張した政治状況だったせいで、厳重な警備が敷かれていました。大会当日、ノロドム・ラナリット第1首相だけを呼ぶと『何かあったら大変だ』ということで、(実際上の力を持っていた)フン・セン第2首相も呼び、2人がスタートラインに立ちました。無事に大会ができ、国内は安全で何も起こらないということをマラソン大会を通じて示し、子どもたちも2回目の大会に出場できました。国にも子どもたちにも変化があり、『スポーツってすごい』と思わされた最初の活動で、それが今の私のスポーツを通じた社会活動の根幹にあります。スポーツが人間社会と共存する重要性を知らされた初の大会でした。もっともっとスポーツの社会と共にあることの意義の可能性を知らなければいけないと思い、国連人口基金の親善大使として、各途上国での社会的問題の啓蒙(けいもう)活動をしたり、スペシャルオリンピックスでもソーシャルインクルージョンな社会の実現に向けて活動したり、「ハート・オブ・ゴールド」は98年から今も活動し続いています」

 ◇「ありもり会議」で女性アスリートへの理解深める

 ―2019年に創設された大学スポーツ協会(UNIVAS)の副会長としては、どのようなことを考えて取り組んでいますか。

 「そういういろんな経験をしてきたわけですが、お話をいただいた当時はUNIVASのことはあまり知らなかったのですが、私がやってきた活動に大学スポーツを関連付けられるのではと考えました。スポーツと社会を絡ませるような活動につながるのではと漠然と思い、引き受けました。何の知識もありませんでしたが、自分の考えを広めたり改革したりしていく上でも大事な分野だと思いました。副会長ということでしたが、あまり大きくは期待されていないのだろうと思いながら、自分の勉強の場にはなるだろうと考えていました」

 「1年ぐらい経過した頃、事務局の人たちと話していて、『大学はこれからの人間育成のための人材の宝庫ではないか』と気付きました。UNIVASは大学にいる人材を生かし、大学生を育成することが経済にもつながり、(子どもたちの)教育にもつながります。私ができることは、オリンピアンの知名度を生かしてこの活動を広めることだと気付きました」

 ―それが「ありもり会議」で具体化したのですね。学生に参加してもらい、オリンピアンや専門家とともに意見交換するというもので、2020年12月に第1回が開かれましたね。

 「第1回はオンラインで開催し、女性アスリートがどんな悩みを持っているのかを知ることを目的にして90分ほどやりました。まずUNIVASを知ってもらいたいと思いましたし、UNIVASの本当の意味での役割を、より高めたいと思って始めたのが、『ありもり会議』だったわけです。まず、自分自身がいろいろ知らないから、『知りたい』という気持ちを学生にぶつけながら、学生から話を聞けるのかなと思いました。その場で学生に問いかけることによって、学生自身がUNIVASの活用性を考える人材となり、自分たちを高めてくれたらいいなと思いました。

 また、国も大学生は大事な人材の宝庫と思わなければいけません。大学生をきちんと育成することは日本の経済にも役立ちます。人間育成に携わる一番近いところにいる人たちです。例えば、教員になるということで言えば、家庭から出た後の子どもたちの価値観を変えていくのは教育です。その教育に携わるのは教員で、仮に健康健全ということを目指すのであれば、そこを改善していけるのは教員なのです。UNIVASはスポーツを通して実行できる大事な組織ということです」

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