「医」の最前線 行動する法医学者の記録簿
なぜ、どうやって法医学者になったのか
~ユニークなキャリア披露 学生のためのセミナー~ 【第8回(下)】
◇主治医のための病理学から社会のための法医学へ
佐藤文子・北里大学教授

「学生のための法医学セミナー」で講演する佐藤文子・北里大学教授=2024年8月24日、横浜市
病理医を目指し、働いてきたが、壁に突き当たり、法医学に行った経緯を通じて、どのように法医学者になったかをお話ししたい。
昭和の終わりに東海大学医学部に入り、そのまま2年間(同大医学部付属病院で)初期研修医を修了。学生時代から病理解剖に興味があり、夏休みは病理学教室にいて病理解剖の補助をさせてもらったり、標本を見せてもらったりしていた。
将来は臨床医になろうかなと思っていたが、自分に向いていないことに気付き、興味があった病理診断科に入って臨床助手になった。1996年4月からで、これが後期研修医の期間となる。
当時の病理解剖は今より数が多く、大体1日に1回はあったと思う。病理解剖には主治医が必ず立ち会い、手術の方法や腫瘍の位置などを説明していただく。解剖は若手の病理医が行い、最後に専門医(の資格)を持っている先生が総括しに来てくれる。
解剖後、マクロを見て仮の報告書を作成し提出。各臓器はホルマリン固定した後に切り出して、標本にする。次に顕微鏡を使って鏡検し、過去のカルテや画像を取り寄せて確認、最終剖検報告書を仕上げる。
そして毎週行われる解剖カンファレンスで、全病理医がマクロの臓器を確認し、ミクロカンファレンスで鏡検して報告書を検討。書き直しになることもある。病理解剖の報告書は、全病理医が同意したものなので、間違えることはないと思う。
外科病理も重要で、若手は指導医に標本をもらい、所見や診断をパソコンに下書きする。翌日、若手は専門医とディスカッションし、顕微鏡を見ながら所見の取り方を教えてもらう。
標本の数が多く、徹夜するか仮眠しながら夜中まで鏡検しないと間に合わない状態で、かなり忙しく、神経が張り詰めた生活だった。診断ができるまで3~4年かかるといった感じだった。
教室は若い先生がたくさんいて、私は助教にも採用されず、4年も後期研修医をやった。そうした中、法医学教室でも解剖をやっているからということで、1カ月見学させてもらったら、とても興味深く、将来やってみたいと思うようになった。
病理に戻った後、精神科に入院中の若い患者が鎮静剤筋注後に死亡した。なぜか法医解剖にならず、病理解剖することになったが、薬物の検査をしないと死因は分からないので、血液を採取して法医の先生に薬毒物検査をお願いした結果、死因は急性薬物中毒と判断された。この時、病理解剖でも死因が分からない事例があると知った。
その後、99年10月に清水市立病院(現静岡市立清水病院)に一人病理医として出向することになった。前任の病理医が急に異動したためだ。当時500床の病院で、年間50例以上の病理解剖があり、実力的にも精神的にもきつかったが、患者のための病理医になると決意を固めた。
出向中に東海大法医学教室から電話があった。助教のポストが空いたから、法医学教室に入局しないかとの電話だった。既に、専門医や学位を取得していたため、迷ったが、病理の指導医の勧めもあって退職し、2001年4月に法医学教室に異動。この時、31歳くらいだったが、一から出直すつもりで、助教としてスタートした。
思っていた以上に多くの承諾解剖や司法解剖があり、毎日地下にこもっているような状態で、また下積み生活に逆戻りした感じだった。病理学とは学問が全然異なっており、どうアプローチしたらいいか分からず、大変悩んでいた。
その時に新しい教授が就任し、留学を勧められ、米国ケンタッキー州立の「Medical Examiner's Office (メディカルエグザミナー・オフィス)」に半年間留学した。病理に戻ろうか悩んでいたが、同世代の女性医師が楽しそうに働いているのを見て、自分も法医学者をやっていこうと決心した。
病理学と法医学の違いだが、病理学は、病理検体を通じて臨床医と患者のために働いているイメージ。常に臨床医が何を知りたいのか、疑問に答えられているかを考えながら報告書を書いている。
法医学は、警察や検察を通じて社会や国のためにご遺体を解剖させていただいているイメージであり、フィールドは広くなる。証人として裁判員裁判に出廷を要請される場合があったり、予期しない時に事件が起きて休み返上で司法解剖を要請されたりすることもある。
(注釈:東海大学医学部法医学准教授を経て、2016年北里大学医学部法医学教授)
(2025/01/21 05:00)