Dr.純子のメディカルサロン

朝ドラのヒロインは「何者かになりたい女子」
コラムニスト・矢部万紀子さん

 海原 組織に属していると上司にどう思われるか常に気になるかもしれないですね。その中で堂々とするには勇気が必要ですね。矢部さんが就職した当時はまだ働く女子が少ない時代ですよね。


 矢部 私は雇用機会均等法が施行される3年前、1983年に朝日新聞社に入社しました。国立大学の経済学部で学んでいましたが、就職部のようなところに行くと、ずらっと求人票が貼ってありました。すべてに「男子若干名」と書いてあり、その光景は今もありありと浮かびます。

 私は文章を書くことが好きでした。公務員には興味が湧きませんでした。なので男女を問わず試験に受かれば採用され、同じ条件で仕事ができるらしい新聞記者になりたいと思いました。ですが、記者職の場合、女子に受験資格がない会社もまだありました。


 海原 女子に受験資格がないというのは驚きです。


 矢部 マスコミもまだ「男子若干名」ワールドでしたが、幸いにも女子に門戸を開いていた新聞社の一つである朝日新聞に、記者として入ることができました。100人近くいた同期の記者の中で女子は6人でした。そういう環境で入社した結果でしょうか、私は「採用していただけただけでありがたい」という気持ちがずっとありました。

 だから実は私は、会社の中で「おかしいな」と思うこともストレートに「おかしい」と言うことはあまりせずに入社から数年を過ごしました。朝ドラに関連しての発言と違うとお感じになるかもしれませんが、幸いなことに活字メディアに活気があった時代に入社した結果、比較的自由な空気が社内にありました。

 そのため、「おかしいな」がたくさんあったわけでなく、少しずつ仕事ができるようになるにつれ、「嫌なことをさせられる前に、自分のしたいことを提案しよう」と考えるようになり、「提案力を上げれば、仕事の自由度が上がる」ことを実感し、そちらの方向で生き延びてきたように思います。

 88年に週刊誌「AERA」が創刊され、初代のメンバーになったことが大きかったです。新聞が記者クラブという「持ち場」を与えられ、他の新聞社と日々の競争をする仕事だったのに対し、総合週刊誌である「AERA」は、自分の興味があることを自分なりの切り口で提案し、採用されれば、取材をして記事にできました。88年はマガジンハウスが「Hanako」を創刊した年でもあり、業界全体に余力がたくさんあったのでしょう。AERA編集部で自分なりの切り口を見つけ、自分なりの記事を書く楽しさに目覚め、そのために努力せねばと思いました。

 なーんて、そんなにスイスイうまくいったわけでは、全然ないのですが。いずれにしろ世の中はバブル経済の真っただ中で、その恩恵を得て成長していったことは間違いないです。

新聞記者になって間もなくの頃

 海原 福田淳一前財務事務次官の言動をきっかけに、メディアで働く女性とセクハラの問題が注目されています。そうした経験はありましたか。


 矢部 私も35年近くメディアで働いていましたから、それに類する記憶がないかと言われれば、なくはないです。「セクハラ」という言葉がない時代でしたから、今でいう「告発」とは違うかもしれませんが、それに近いことをしたこともあります。「こんな目に遭った」と信頼できる上司に訴えたのです。

 その上司は「嫌な目に遭わせて申し訳ない」と言ってくれました。セクハラ→処分、というような回路が、私にも会社にもない時代のことなので、それだけでもすごいことだと思います。

 同じようなことがあっても、誰にも言わなかったこともあります。いずれにしろ、そんなことをする人物はいつかメインストリームから外されていくだろうと思うことで、自分を収めていたように記憶しています。ですから、まさかそういう人が事務次官にまで上り詰めるとは、夢にも思っていませんでした。


 海原 仕事で嫌なことや心が折れたときはどう乗り切ったのでしょうか。


 矢部 入社から数年経った頃、社内での息抜きの会話だったのですが、どんな部署に進みたいかと聞かれたので、ある部署を邪念なく(と、自分で言うのもおかしいですが、「楽しそうだな」という程度の気持ちで)口にしたところ、「その部署には、女性は行けない」と言われました。その時の悔しさは、よく覚えています。その部署は、男が主たるプレーヤーである世界をカバーしていたのですが、自分はそれに近い世界を一生懸命取材し、結果も出している自負がありました。その話をした相手は男性の先輩記者で、人事の責任者でもなんでもないのですが、実に楽しそうに、その部署へ進めるのは選ばれし男性だけだと語るのです。

  その日のことを思い出すと、今も小さくはらわたが煮えくり返るのですが、当時は言い返すことも、そういう状況を打開しようと動くこともしませんでした。その時の悔しい思いは、私の心のどこかで仕事の原動力、負けないぞ、みたいな気持ちに通じているかもしれません。私がそんな女人禁制的世界に押しつぶされることなく生きてこられたのは、きっと無意識のうちに、得意な分野に居場所を見いだしてきたからかもしれないですね。

 当時私が口にした部署は、社内でメインストリームとされていた部署でした。もしそこが彼の言うような女人禁制の世界でなく、私がそこに所属していたりしたら、私は会社にもっともっと従順な女子になっていて、転職することも、その転職先も辞めて、本を書くことなども、ありえなかったかもしれません。彼がいたから『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』を世に出せたと感謝すべきですね。それと朝日新聞の名誉のために、今その部署は女人禁制になっていないことを付け足しておきます。

「AERA」時代、サーカスを取材。ゾウが歓迎してくれたけれど怖かった。

 朝ドラに話を戻します。「カーネーション」という私の大好きな作品のヒロイン糸子は、コシノ三姉妹を育てた小篠綾子がモデルです。尾野真千子が演じた糸子は、勇気と正義感と商才にあふれる女子として描かれます。

 昭和の初めに東京の百貨店で火災があり、和装の制服を着た店員が多数死亡したことを新聞で知り、糸子は心斎橋の百貨店に制服を洋装にしないか、自分は作れると売り込みに行きます。洋装店を始めたばかりで、実績など何もない糸子だから、あっさりと断られます。でも、諦めず、何度もデザイン画を持っていき、何度も断られるうち、糸子はこう思うのです。「気に入られようとするからダメなんだ。自分が着たい制服を作ればいい」。

 私はこのエピソードが大好きで、著書にも他のメディアにも書いたのですが、この時、まだ糸子は10代です。すごいと思います。私は「自分の好きを大切にすることが、一番大切だ」と思っています。でもそういうふうに思い至ったのは、多分30代の半ばです。

 雑誌をつくることは大好きで、多少得意でもあったのですが、60歳までそれを続けるより、さっぱりと一人で生きてみようと思いました。息苦しい息苦しいと言いながら組織に縛られるのはやめようと決めたのです。56歳でした。雑誌づくりと同じくらい好きな文章を書くことを頑張ってみようと思い、生まれて初めて「売り込み」というのをし、本を出すことができました。これからも細々とでも、好きな文章を書いていこうと思っています。


 海原 組織の中で生きてきた方がフリーランスで仕事をするのはとても勇気がいることだと思います。組織は息苦しいですが組織の名前で仕事をできることもありそれが安心感につながることもあると思います。自分の名前で生きることは本当に自由に堂々と自分を主人公として生きる人生、50代で新しい人生をスタートする矢部さん、かっこいいですね。「働く女子の本音」委員会、またいたしましょう。

(文 海原純子)



矢部万紀子(やべ・まきこ)

1961年生まれ。コラムニスト。83年朝日新聞社入社、宇都宮支局、学芸部、「AERA」、経済部、「週刊朝日」に所属。週刊朝日で担当した松本人志著『遺書』『松本』がミリオンセラーに。2011年に朝日新聞を辞めてシニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長に就き、17年からフリーランスに転じた。



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