Dr.純子のメディカルサロン

海外で失業、50代から再出発 栗崎由子さん

 1984年、男女雇用機会均等法が成立する1年前、私は東京の青山で女性のための健康相談や定期健診のためのクリニックを立ち上げました。診療科にこだわらず仕事帰りに心配なことを相談できるように午後6時以降も予約制で受診できるようにしました。

 当時はちょうど女性の社会進出が始まった時代で、受診する方々はそれぞれ自分が目指すものを持ち、男社会とぶつかり、ストレスで悩みながら自分らしい生き方を模索していました。栗崎由子さんと出会ったのはその頃です。栗崎さんは大学卒業後、国内数カ所で勤務した後、海外に渡ったため、それ以来お目にかかることはありませんでした。

 ところがつい先日、再会の機会を得ました。

 私の友人である大阪大准教授の女性から、「50代になって海外で失業したにもかかわらず素晴らしい生き方を見つけた女性がいる。その方に参加してもらいSNSを使って講義をするのだけれど一緒に加わってほしい」と言われました。その資料を見るとそこに栗崎さんの名前があったのです。

 私は診療で30代、40代の方から再就職先がなくてストレスを感じている話を聞くことがとても多いのです。もうだめかと諦めかけている人たちに栗崎さんの体験は活力を与えてくれると思い、一時帰国のスケジュールを縫ってお話を伺いました。



 海原 栗崎さんが東大を卒業したのはまだ女性の社会進出が本格化する前ですよね。NTTに就職したのは転勤があるからだとお聞きしましたが、転勤は銀行や新聞社、商社などでもありますよね。NTTを選んだ理由は何だったのですか。

 栗崎 私が就活を始めたのは均等法ができる前でした。当時の企業は「女性は採用しません。女性は事務職だけです」と堂々と公表していて、世の中の大半はそれを不思議とも思わない時代でした。大学の外では男女不平等がまかり通っていました。ところが私はうかつにも就活を開始してからその不平等に気が付きました。

 最初に訪問した企業はKDD(現在のKDDI)でした。当時KDDは国際通信専門の会社だったので、外国を相手に仕事をしたいと思っていました。

 ところが、会社の受付で履歴書を見せると困った顔をされ、「うちでは女子の採用は電話交換手だけです」と言われました。私はそこで初めて女性の就職機会がとても狭いことを知りました。

 結局、日本電信電話公社(現在のNTT)の試験に合格して就職しました。NTTは当時、電電公社と呼ばれていました。電電公社は私の入社する2年前から、ほんの少数ですが大卒女子を男女平等待遇で本社採用するようになっていたのです。たまたま電電公社には大学のゼミの先輩(男性)が入社しており、電電公社が大卒女子を採用しており、留学の機会もあると教えてくださいました。それを聞いて私は電電公社を志望しました。

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