Dr.純子のメディカルサロン

海外で失業、50代から再出発 栗崎由子さん

 海原 日本から離れて仕事しようと考えたきっかけは何ですか。

 栗崎 私は子どもの頃から外国に興味を持っていました。大いなる好奇心といいましょうか。読む本も幼い頃は、「小公子」「黒馬物語」など外国の作家の作品がほとんどでした。それが大人になってから海外に行きたいと思うようになった下地だと思います。

 電電公社に入社後、社内の留学試験を二度受けましたが二度とも落ちました。しょんぼりしていたら、留学経験のある上司が、「会社の留学制度ではなく、外部の奨学金を得たらどうだろう。かつて電電公社にもそうやって留学した人がいたよ」と教えてくれました。その言葉に目からうろこが落ちました。

 あちこちの奨学金を探して応募しては断られる、を繰り返し、最後にカナダのトロント大から「当大学の奨学金を出します」という手紙をもらいました。英語の手紙でした。信じられなくて、自分の読み間違いではないかと思い、何度もその手紙を読み直したことをよく覚えています。

 82年にカナダに渡り、トロント大大学院で公共政策論を専攻しました。84年に留学を終えて帰国し電電公社に復職しました。電電公社民営化の前年でした。

 ところが2年ほどたつと職場の環境が変わり、息苦しさが増すようになりました。若い国であるカナダで北米の自由な空気を吸って心の開放感を知った後だったからかもしれません。他方、大きな会社の仕事の進め方、物事の決め方に自分を合わせられない、不器用な自分もいたと思います。

 当時私はサービス開発を担当していましたが、その傍ら電気通信を専門にする国際機関の会議に毎年2度ほど出席していました。それはジュネーブに本部を置く国際電気通信連合(ITU)という組織です。

 ITUの国際会議の空気が私にはとても快適でした。自分の意見を率直に述べられる。若年者も年配の人々と同じように仕事を進められる。そこには日本と全く違った仕事の仕方、平等な人間関係がありました。少なくとも当時の私の目にはそう映りました。そんな経験を経て、「日本とは違う価値観のある社会に行ったら、自分はどんな人間と見られるのだろうか。違う鏡に自分を映してみたい」と思うようになりました。



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