Dr.純子のメディカルサロン

海外で失業、50代から再出発 栗崎由子さん

 日本で毎日息苦しさを我慢している自分が嫌になってもいました。自分で自分を小さくして生きているように感じていました。日本の外には私がのびのび仕事をできる世界があるのに、私はなぜ不満を抱えたままこうしているのだろう、と。

 ちょうどその頃、私の友人が新聞広告を見て経済協力開発機構(OECD)のリクルートミッションが来日することを知らせてくれました。OECDについて調べると(当時はウェブなんてありませんでしたから何で調べたかは忘れましたが)そこには私の専門の電気通信政策を扱う課があるではありませんか!場所も一度は住みたいと思っていたパリ。一気にエンジンがかかりました。こうしてOECDへの長い道のりが始まりました。

 海原 海外でのキャリアやステップアップはある程度順調でしたか。

 栗崎 さて、どう申しましょうか。私は89年に欧州で仕事を始めました。その後約30年、昇給はありましたが、昇進はありませんでした。OECDでも、転職先のジュネーブの多国籍企業でも昇進しませんでした。欧州では昇進、異動したければ、自分で働き掛けなければなりません。私はそのことに気付くのが相当に遅かったのです。

 また私自身にもキャリアアップという考えがありませんでした。仕事は面白かったし、やりがいもあったので、今全力で良い仕事をしていればいい、となんとなく思っていました。仕事の成果が認められて昇給はしましたから、そんなものだと思っていたのです。私は日本だけで通用する考え方を欧州の会社に持ち込んでいることに気付かなかった。お人よしの日本人だったのです。

 海原 とはいえ欧州でキャリアを積み重ねてこられて、突然失業されたわけですよね。その時はどのようなお気持ちだったのでしょうか。

 栗崎 私は30年近く毎朝出勤する場所のある生活を続けてきました。ですから、その生活がある日を境にこつぜんと消えるなんて想像もできませんでした。

 初めの2カ月ぐらいはどうしていいか分かりませんでした。平日の昼間に一人町中にいる自分。突然100%の自由時間を手にして、食べるにもまあ当座は困らなくて。けれども自分は何をすればいいのか分からなくて、居場所が無い不安な気持ちでした。おへそを失ったような感覚とでも言いましょうか。

 毎日当たり前のように会う同僚が突然人生から消えたことにも驚きました。話し相手がいないことがこんなに頭を退屈にさせるのかと思いました。このままでは自分はあほうになると思いました。



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