Dr.純子のメディカルサロン

海外で失業、50代から再出発 栗崎由子さん

 海原 精神的にダメージを受けるのは当然ですが、どのように気を取り直したのですか。

 栗崎 ダメージを受けたのかなあ。まあ受けたのでしょうね。けれども仕事を失った過去を振り返っている暇はないと思いました。私には家賃を払い、お米を買うためのお金が必要です。頼りにする夫も金持ちの両親もいません。自分で稼ぐほかありません。すぐに仕事探しに乗り出しました。履歴書を書くのは大変でしたし、することはいくらでもありました。仕事探しはそれ自体がフルタイムの仕事だとすぐに分かりました。

 仕事探しは何度も行き詰まりました。気持ちを明るく前向きに保つようアドバイスされましたが、一人でそれを続けるのは疲れます。その頃、猫を飼っていましたが、私が悲しくてたまらないときに、猫が寄ってきて慰めてくれるのです。これは不思議でした。どうして猫に私の気持ちが分かるのだろうと思いました。


 海原 失業した時、支えてくれたのはどんな方でしたか。

 栗崎 あちこちで出会う大勢の人々が、少しずつ自分にできることをして私を助けてくれました。私は「助ける」という意味が失業経験を通じてよく分かりました。助けるとは、何か具体的なことをすることです。私の場合、「この会社を当たってみたら」と具体的な企業名や連絡先を教えてくれたり、私の仕事探しに役立ちそうな、自分が知っている人を紹介してくれたりする人々がいました。

 「あなたは年を取っているから大変でしょう。頑張ってください」などという言葉はいろいろな人に何度も言われました。そんなことは言われなくても分かっていることです。そういう言葉は何も生み出さないし、励みにもならないとすぐに気がついたので耳をふさぎました。人は自分がとてもつらいときに、何に助けられるのかが敏感に分かるようになるのですね。

 海原 就職するまで履歴書を200通も書いたそうですね。履歴書を書いても返事が来ないという状態は非常につらいと思いますが、どのようにしてご自分の自己肯定感を保っていらっしゃいましたか。

 栗崎 一生懸命に心を込めて時間をかけて書いたレターと履歴書を送ってもなしのつぶてという経験は確かにつらかったです。これには参りました。自分が世の中から相手にされていないように思いました。自分が不要な人間になっていくような感覚でした。後でジュネーブでは選考対象にならない人には返事をしないのが慣行だと知りました。だからといって、納得して慣れられるものではありません。心は深く傷つきます。



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