こちら診察室 介護の「今」

最後のセーフティーネット 第46回

 「今までは何とかなっていた。でも、今度こそは駄目かもしれない」

 閉め切ったアパートの一室で60代後半の男性は極度の空腹を抱えていた。家賃を滞納してから久しい。蓄えは完全に底を突いた。年金もなく、金が入る予定はない。頼る人もいない。

半世紀前、空腹に耐えられなかった若者は茶葉で飢えをしのごうとした

半世紀前、空腹に耐えられなかった若者は茶葉で飢えをしのごうとした

 ◇古い記憶

 こんなにひもじいのは、あの頃以来だと男性は思い出す。大学受験に失敗し、都会で浪人暮らしを始めた半世紀ほど前の古い記憶だ。

 仕送りをパチンコですってしまい、親からの現金書留が届くまでの数日間、一文無しで暮らさなければならなかったのだ。

 水だけで何とかなるさと強がってみたけれど、1日目で頭の中は飢餓感に支配された。

 「腹が減った、何か食べたい」

 すべてにそれが優先した。部屋の中にある食べ物といえば…。19歳の若者はお茶っ葉を口に入れた。でも、空腹が解消できるわけはない。そんな時、オンボロアパートのドアがノックされた。郷里からの小包だった。中身はリンゴ。「あの時のリンゴの味は一生忘れられない」とうつらうつらしていると、ドアをノックする音が聞こえる。

 男性は、むっくり起き上がりドアを開けた。

 ◇上等な味

 ドアの外には女性が2人立っていた。民生委員と地域包括支援センターの職員だった。「体を壊しているんじゃないかと心配だから様子を見てきてほしい」と通報があったのだという。「大家だな」と男性は思ったが、2人の優しそうな物腰に「実は腹が減って」と率直に申し出た。

 地域包括支援センターの職員は社会福祉士だった。「福祉制度に明るいので、一緒に来てもらった」と民生委員は言った。

 社会福祉士は30代だろうか、バッグにごそごそと手を突っ込み、何かを取り出した。

 「あの〜、よかったら、これ食べますか?」

 板チョコだった。

 「時々、甘い物が無性に食べたくなるので、持ち歩いているんです」

 男性と同じような年頃の民生委員に目をやると、大きくうなずいている。男性は「ありがとね」と板チョコを素直に口にした。50年前のリンゴと同じように、飛び切り上等な味がした。

 ◇人生遍歴

 人心地ついた後、飢餓状態に陥るようになるまでの人生遍歴を話した。初対面の2人に自分のプライバシーを語る気になったのは、何よりも包み込むような柔らかさにあった。

 男性は大学卒業後、大企業のサラリーマンとなる。その取引先の小さな会社に請われて転職し、役員に上り詰めた。しかし、会社が倒産。何とか再就職先を見つけたものの、裕福な暮らしが忘れられず、カードローンや消費者金融で金を借りた。多重債務。返済が滞り始め、取り立て屋から逃げるように家族を捨てて「蒸発」。その後、反社会的な男の口利きで、風俗営業店の雇われマスターとなった。ところが今度は、その経営者が脱税容疑で逮捕されて店は閉鎖。夜の町で仕事を転々としたが、不規則な生活がたたったのだろう。体調を崩すことが多くなり、定職に就くことができなくなった。

 60代も半ばになると、なかなか仕事が見つからない。少しばかりの蓄えで細々と食いつないできたものの、やがて蓄えは底を突き、アパートの家賃はおろか、食べる物にも困るようになったのだ。

 ◇提案

 男性の話を聞き終えた民生委員は、社会福祉士資格を持つ女性職員に「利用できる制度がありそうですね」と持ち掛けた。職員は「今、一番お困りのことは…」と問い掛けた。

 男性が返事に窮していると、十分に間を空けて、「生活費ですね」と優しい口調で確かめた。男性はうなずいた。

 「生活保護を申請してみますか?」

 一時は会社役員を務めたことのある男性にとって、生活保護は考えもしない選択肢だった。ただ、家族を捨ててから住民票がない。その旨を告げると、「住民票の有無は関係ありません。保護を必要とするすべての人は、無差別平等に保護を受けることができます」と言い切った職員は、「ただし…」と続けた。

 「福祉事務所の担当の方が、根掘り葉掘り尋ねます。その過程で、ご自分の過去に向き合い、その過去をある程度清算していくことが必要になるかと思います」

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