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へたれたら「私はスーパーウーマン!」と声に出して言ってみる 内山眞幸・東京慈恵会医科大教授


 海原 放射線科を選んだ理由は。

 内山 ポリクリと呼ばれる臨床実習で放射線科を回ったのがきっかけでした。検査を行い、読影をする。同じ科の中に放射線治療部もあり、治療部は腫瘍治療専門医であり、立ち位置の異なる医師が放射線というものを中心として有機的につながっている不思議な形態に見えました。放射線を扱う物理の知識も少し役に立ちそうで、医学以外の要素が占める割合が他科より多い点に興味を持った感じもあります。

 今は核医学を専門にしています。放射線同位元素を用いた診断と、放射線同位元素を投与することで治療する内照射療法に力を入れており、100%放射線を用いる画像診断と治療の双方を行っています。放射線防護も仕事のひとつです。

 その関係で、原子力安全委員会の下部組織の委員もさせていただきました。東日本大震災の時は発災翌日の3月12日から同月中は24時間シフトになり、内閣府で12時間仕事をして、残りの12時間で病院での読影、睡眠、食事をしているような状態でした。

 海原 仕事を続ける上での困難や、生活との両立をどう乗り切ってきたのですか。

 内山 すべての女性がぶつかる壁に、普通にぶつかりました。われわれの時代はまだ産休を取ることなど考えられず、休職しました。息子が1歳10カ月の時、夫の留学で3年間を米ボストンで過ごしました。それまでは、復職後、学外の出張病院で働いていました。子育てが一番大変な時期は当直なしの環境でした。

 米ハーバード大のメディカルエリアでフェローの席を得ることができ、そこで核医学を専門にしました。息子が4歳の時に帰国し、その後は大学での通常勤務になりました。子育てと当直、学会それぞれをなんとか折り合いを付けてやっていくしかありませんでした。夫は小児科の血液腫瘍科を専門としており、日々の生活では戦力とは言えませんでしたが、当直の日程はお互い調整して、なんとか乗り切りました。

 息子は、保育園でなく、幼稚園に入れました。今から思うと変に肩に力が入っていた結果です。専属のベビーシッターさんに毎日来てもらい、自分の収入のほとんどはシッター代へと流れていきました。息子は小学校から私立で給食がありませんでした。このため、生後3カ月から高校3年まで昼のお弁当を用意しました。中学受験の時は塾で夕飯を食べるため、昼と夜のお弁当を作らなくてはならず、このころ夫も糖尿病で一緒にお弁当を持たせるため、毎日3人分を作っていました。これは大変でした。

 「私はスーパーウーマン!」と声に出して、ひとりで自分を鼓舞していました。素敵な乗り切り方はありません。一日一日をクリアするしかなかったと思います。食べさせて、着せるのが精いっぱいのダメな母でした。土曜も仕事だったので、保護者会などにはほとんど出たことがありません。それでも息子はよくグレずにやってくれました。学会の準備や原稿書きなどで私はお弁当作りの前に机に向かっていたので、息子も朝、机に向かう習慣ができていました。

 海原 「なでしこ会」の目指すところは何でしょうか。

 内山 メンバーが参加している主な学会は日本核医学会です。核医学会は放射線科医の他に、診療放射線技師、内科医、外科医、薬学工学の先生方で構成されています。さらに看護師、薬剤師にも参加していただけるように頑張っています。核医学に携わる女性の横断的なつながりをつくるために立ち上げました。

 定員の少ない医療施設ですと、少ない人員で孤軍奮闘なさっている方もおられます。施設を越えていろいろな疑問や困りごとなどを相談でき、知恵を出し合える環境をつくりたいと思っています。

 核医学は勤務時間が決まっており、女性には働きやすい部門です。この部門に飛び込みやすい環境をつくり、核医学を一緒にやってくれる若手が1人でも増えてくれることを願って活動しています。

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