Dr.純子のメディカルサロン

へたれたら「私はスーパーウーマン!」と声に出して言ってみる 内山眞幸・東京慈恵会医科大教授

 2017年10月初め、横浜で第57回日本核医学会学術総会が開かれました。核医学会は、核医学に従事する放射線科医や臨床医の他に、工学薬学の研究者、診療放射線技師に加え、看護師、薬剤師にも参加を呼び掛けている学会です。この学会に「なでしこの会」という集まりがあります。この会は放射線科に携わる女性医療職の交流の場で、ワークライフバランスなどをテーマにした講演が毎回行われています。

 私は、この会を立ち上げた内山眞幸先生から講演を依頼され、女性医療職のストレスなどのお話をさせていただきました。それがきっかけとなり、今回は内山先生に女性医師の継続就労や内山先生ご自身のキャリアについてお話を伺いました。


 海原 先生の学生時代、医学部の女子学生は少なかったと思いますが、どのようなきっかけで医師を目指したのですか。ご家族の影響はありましたか。

 内山 学生時代の私はいわゆる「理系女子」で物理・数学が得意でした。あまり勉強や暗記をしなくても感性で解けるからというのがその理由で、今から振り返ると怠惰な学生でした。特に数学は、問題を見ると(解き方が)すっとひらめく感覚が好きでした。

 ただ、高校時代の自分には、数学で生計を立てるということがどうしてもイメージできませんでした。父は消化器内科医で開業していました。見渡すと親戚にも医師が多く、環境の要因は大きかったと思います。医学部に行くのが当たり前のような進み方でした。

 結果として、弟も消化器内科医、夫は小児科医、息子は現在、初期研修医で呼吸器内科志望と、つくづく家族集積性のある職業だと思います。教師や警察官と同じです。母が短期入院したときなど、お見舞いに来たのは医師だけだったことがあります。

 父は晩年失明し、よく朗読のテープを聞いていました。もう患者さんを診ることもないのに、医学関係のテープをさまざまなところから取り寄せるのです。「医者って、職業でなく、人種だな」と思います。卒業時には、この年まで大学に残るとは思ってもいませんでしたし、自分の将来像を描けていたわけでもありません。行き当たりばったりで今ここにいます。

 海原 どんな学生時代でしたでしょうか。クラブ活動はなさっていましたか。

 内山 学生時代を振り返ると、遮二無二何かに取り組んだということが足りなかったように思い、少し後悔しています。学生時代から基礎教室に出入りして、研究に取り組み、論文を書いている学生もいます。そんなチャレンジ精神や思いつきはありませんでした。ただ医学部は進級試験などデューティーがきつく、多くの時間を勉強に費やすことになります。学業は人並みにやってきましたが、「あー遊んだ」ということもありませんでした。

 部活は馬術部でした。私はイマイチの部員で、馬術は男女混合戦なので試合にはどうしても男子学生が出ますし、3年生の後半からマネジャーになってしまいました。馬術部は関東学生の組織に入っていましたので、学生馬術の大会があると「使役」と言って運営に駆り出されます。中央大や専修大の若い学生と一緒に使役をしました。

 また、お世話になっている馬場では、練習の前後にはコーチの馬の手入れや馬房掃除、おがくず運びなども手伝いました。馬は大好きでした。本当にかわいくて、世話をしていると時間を忘れてしまいました。夫は馬術部の2年先輩です。でもなんだかパッとしない学生時代です。


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