2024/12/12 05:00
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憧れの医師になって期待に胸を膨らませていたのもつかの間、過酷な現実が待ち受けていた。「医師だから我慢しないといけない」。背伸びをして自己犠牲のループに陥った女性がたどり着いたのは「できません」と断る勇気だった。意識と行動を変えることで驚くほど人生が好転した藤田亜紀子医師の逆転エピソードとは。
藤田亜紀子医師
◇さほど成績優秀でもなく、メンタルも弱かった
小学校2年生の時に、祖父母ががんで立て続けに亡くなった頃から「お医者さんになりたい」という気持ちが芽生えました。両親から勧められたわけでも、さほど成績優秀だったわけでもなく、ドラマの世界の医師に憧れていただけだったのかもしれません。医学部を目指して勉強を始めましたが、もともと重度の月経困難症で、高校3年で受験のストレスが重なると貧血になるほどの重い生理が頻繁に来るようになりました。ピルで生理を調整して勉強を続け、なんとか医学部に入学できたもののメンタルが弱く、大学時代も勉強のストレスで体調を崩してばかりいました。
◇過酷な現実に自分を見失う
医学部を卒業し、名古屋市内の総合病院で2年間の初期研修を終えた後に結婚しました。3年目からは専門を消化器内科と決めて、内視鏡の手技を習得し、期待に胸を膨らませていました。けれども自分の専門である消化器内科に専念できたのは最初の数カ月間だけ。勤務した病院には消化器内科医は自分も含め3人しかおらず、緊急内視鏡を行う医師が私と指導医の2人だけだったため、全症例で呼び出されました。当直は準夜勤と深夜勤の月8回。基本的に当直明けの日もそのまま診療に入り、家のベッドで寝られない日も多く、疲れが取れないまま仕事を続けていました。どんなに体がつらくても弱音を吐くことさえできない。子供の頃から憧れてきた医師像と過酷な現実とのギャップを突き付けられ、まるで自分が自分でないかのような日々でした。
◇不妊治療も妊娠も言えない
結婚して1年たつ頃に「子供が欲しい」と思うようになりました。仕事から逃げたかったのかもしれません。ピルの服用をやめて生理が来なかったので妊娠していると思い、婦人科を受診すると卵巣が働いていないことが判明しました。不規則な生活とストレスからホルモンのバランスを崩していたのです。不妊治療を始めたことを誰にも相談できず、通常通り診療を続けていました。婦人科で処方されたホルモン剤の副作用で精神状態が不安定になり、当直で睡眠不足が続くと涙が止まらず、感情のコントロールさえできなくなりました。その時ばかりは当直を少しだけ減らし、その後、運よく1人目の子を授かることができたのですが、職場で妊娠を言い出せず、放射線を扱う仕事では内心ドキドキしていました。
左上から藤田医師、白川さん、稲垣、左下から河野医師、水野さん
◇ワンオペ育児でも男性と同じ働き方
出産後半年は普通に産休・育休を取りましたが、復帰後の子育てとの両立はもっと過酷でした。今まで通り常勤で当直もこなした上、完全主治医制だったため、勤務時間外の緊急の呼び出しもたびたびありました。女性医師の大半は、出産後でも親に子供を預けて男性と同じように働いていました。私の場合は実家が遠く、呼び出されると、ベビーカーごとナースステーションに子供を置いて診察することもありました。夜中に仕事から帰ってくる夫と入れ替わるように病院に出かける生活が続いたせいか、娘が情緒不安定になり、私がいなくなるとパニックを起こすようになりました。私自身も精神的にも体力的にも限界を感じ、時短勤務にしてもらったのですが、次第に居づらくなって退職しました。
◇幼子2人を連れて深夜のみとり
ある老人保健施設から「老衰の対応やみとりを施設内で導入したいので管理者として来てほしい」と声を掛けていただきました。仕事はかなり楽になったのですが、みとりで夜中に呼ばれることが多い仕事でした。2人目の子供が欲しかったので、漢方を服用して妊娠したものの、流産してしまいました。流産後の処置のため日帰り手術を受け、本来は2週間の休養が必要なところ、術後1日だけ休んで、へろへろな状態で職場に復帰。しかし、予後が悪く、一時は深刻な事態になりました。無事に2人目が生まれた後も、夜中に2人の幼子を連れてみとりに行く生活を続けていましたが、それにも限界を感じ、老健の仕事も辞めました。
その後、非常勤として昼間だけ訪問診療専門クリニックで働き始めました。けれども疲れ切った院長先生が1人で待機している姿を見て見ぬふりができず、手伝っているうちに普通に仕事を頼まれるようになってしまい、結局そこも続けられませんでした。
◇悪循環の原因は自分の中にあった
私はこれまで、自分ができないことを無理して引き受けては、結局できなくて職場を去ることを繰り返してきました。思い返すと、誰かに無理やり強制されたわけでも、「子供と過ごしたい」と言って責められたわけでもありませんでした。「医師とはこういうものだ」と思い込み、背伸びをして不本意に突っ走っていただけだったのではないかと思えるようになったのです。「できないことはできない」と言ってみる。すると自分がやらなくてもきっと誰かできる人がやってくれる。もし誰もやる人がいないとしたら、それはその職場に問題がある。そう考えるようにしたのです。
暮らしの保健室は2022年から診療所で始めた取り組み。事務長(右)と看護主任(左)との最高のチーム
◇自己犠牲をやめて働きやすい職場をつくる
現在、非常勤の医師や医療スタッフ10人ほどの小さな診療所で所長をしています。毎日、本当に楽しく仕事をしています。事務長から所長職の話をいただいたのは2020年の春。新型コロナウイルスの感染拡大で子供の学校も休校になり、明日どうなるか分からないという状況でしたが、「自己犠牲はやめる」と心に決めていました。「仕事よりも子育てを優先させたい」とはっきり意思を伝えたところ、「それでもいい」と言われ、所長職を引き受けることにしたのです。
夜間や休日は非常勤の医師にお願いし、所長自らが無理のない働き方をすると、スタッフにとっても働きやすい職場になりました。コロナ禍でワクチン接種の混乱や発熱外来に患者さんが殺到したこともありましたが、所長就任以来、職員は誰一人辞めず、以前にも増して生き生きと働いてくれています。
(2023/03/07 05:00)
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