一流に学ぶ 「女性外来」の先駆者―対馬ルリ子氏
(第4回)
「女性は無理」を押し切って産婦人科へ
「大丈夫。ぜひ」と東大病院に
対馬氏は28歳の時、一度結婚している。お披露目のパーティーをして、生活を共に始めただけの婚姻届を出さない事実婚だった。しかし、お互い仕事で家に帰れない状態ですれ違いが続き、1年もたたずに破綻してしまった。
東京大学の関連病院で多忙を極めていた30歳の時、妊娠していることに気づいた。相手は同じ病院で働く1年上の先輩だった。知り合ったばかりで交際もしていなかったという。「アクシデントでした。中絶しようか迷いましたが、生活力もついた頃でしたし、一人で産んで育てようと思いました」
対馬氏の年収は、勤務医の基本給だけでは少なかったが、当直代やアルバイト料なども加えると生活には十分だった。学生時代から、自分で子どもを産める経済力と生活力を身に付けてから妊娠したいと考えていた。「今がそのとき」と思った。
妊娠初期につわりで苦しんでいると、彼が自宅に来て食事の支度をしてくれるようになった。「料理がすごく上手な人です。掃除も洗濯も何でもできる。そのうち、通ってくるのが大変だから一緒に住んだ方がいいという流れになって、最終的には結婚することになりました」
出産は勤務先の病院で、3日間陣痛に苦しんだ後の帝王切開だった。挙式も披露宴もないまま、婚姻届と出生届を同時に出すと、夫は対馬氏のマンションに移り住んだ。
「一緒に住んでみると、意外と便利だったんです。まったくこだわりのない人で、お説教くさいことは何一つ言わない。いつも私の笑いのツボを押してくれて、くつろげる相手でした」。人生の転換期はこうして突然訪れるものなのだろう。期せずして、親子3人での生活が始まった。(ジャーナリスト・中山あゆみ)
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(2018/02/15 09:20)