一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏
(第13回) 大学教授に就任 =マイナスからのスタート
昭和大学横浜市北部病院循環器センター長(教授)に就任し、社会的な地位を手にしたが、着任後すぐに間違った選択だったことに気付いたという。病院周辺は当時、若い世代を中心とする新興住宅地で、中高年以降に多い狭心症や心筋梗塞などの患者自体が少なかった。天野氏はまだ40代半ば。外科医として脂の乗り切った年齢で、年間300例以上あった手術が3分の1の約100例に減ってしまった。
「せっかく磨いてきた手術の腕が鈍ってしまうと焦りました。このまま心臓外科医としての自分が終わってしまうような気がして、正直つらかったです」
そんな折、順天堂大学医学部胸部外科(現・心臓血管外科)の教授選に立候補しないかと声が掛かった。努力を惜しまない人間には、絶妙なタイミングで救いの手が差し伸べられるものだ。負債を抱えていた状況下で、収益を上げられる医師が欲しいと願っていた大学側にとって、天野氏は適任だった。胸部外科として古くから実績ある大学で、手術の腕を期待されての人選。天野氏はその誘いを受ける。当初、3人の候補者が出たが、最終的に天野氏が選ばれた。
しかし今度は着任早々、想像以上の逆風にさらされた。「100メートル走るのに、マイナス50メートルからのスタートでした」と当時を振り返る。新東京病院時代の天野氏の元には、都内の大学病院も含め、各地から患者が集まってきた。順天堂大では「患者を横取りしたヤツが、いよいよ乗り込んできた」「今度の教授はちょっと変わった医者らしい」など、さまざまな評判が立った。看護師から「ここは大学病院ですから、先生のいた病院とは違います」と言われ、何かにつけて協力してもらえなかった。
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(2017/02/13 11:56)