一流に学ぶ 難手術に挑む「匠の手」―上山博康氏

(第5回)退院指示に教授激怒=「術者プライド」13年かけた教育

 ◇「今でも帰すか」

 教授は上山氏が患者を退院させたことを、すぐに見抜いた。「あの子どうした」と血相を変えてきた教授に「手術を希望されずに週末に退院されました」と答えた途端、教授は机をひっくり返した。

 「『俺は貴様が生まれる前から脳外科やってるんだ。貴様ごとき青二才に何が分かるか』って、ものすごい怒りました。僕は段ボールに荷物をまとめる時が来たと思った。誰も逆らえずにイエス、イエスって言ってる大教授に対して、一介の研修医が真っ向から盾突いたんだから、もう僕の居場所はないのだと」

 ところが、講師から思いがけない言葉を掛けられた。「あの後、すぐに教授室に行ったら、都留教授は開口一番、『上山って骨あるな』って言ってた」という。

 「『あした何事もなかったように出てこい』って講師から言われて、机がなくなってるんじゃないかと恐る恐る出て行ったら、普段通りで何のおとがめもなかったんです」

 5年後、女児の母親から上山氏に手紙が届いた。「先生のおかげで5年の命をいただきました、という感謝の手紙だったけど、行間に寂しさと、もしかして手術で(腫瘍が)取れていればっていう思いがにじみ出ていました。僕も、5年しか生きなかったのか。僕が脳外科医の命をかけて帰したけれど、たかが5年だったのかと」

 患者を無断退院させた「事件」から13年後、ある学会のシンポジウムでの講演を、すでに名誉教授になっていた都留教授が聴きに来てくれた。

 「いい発表だったぞ。メシでも食いに行くべ」と誘われて、店に入ると、席に着くなり、教授はいきなり「上山、今でもテラトーマは帰すか」と聞いてきた。一瞬で教授の気持ちを理解し、直立不動で謝った。

 「僕は女の子の家族側の気持ちになって先生を恨んでいたけど、9歳のかわいい子どもが植物状態になって、一番切なかったのは術者である都留先生だったんです。次こそはという思いもあったでしょう。その気持ちを理解していなかった」

 これは教授のリベンジであり、愚かで経験不足な私への気の遠くなるような長い年月をかけた教育だったと上山氏は受け止めた。

 「僕が術者の気持ちが分かるよう熟成するのを待って、『今でも帰すか』と聞いてきた。先生は受け持ち患者を失った僕の悔しさを踏まえた上で、プロの術者としてのプライドを理解しなかった僕に、13年の年月をかけて教育してくれたのだと思います」(ジャーナリスト・中山あゆみ)

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