一流に学ぶ 角膜治療の第一人者―坪田一男氏

(第7回)アイバンクセンター創設=厚生省と粘り強く交渉

 ◇コーディネーターにこだわる

 アイバンクの設立に当たり坪田氏がこだわったのは、角膜移植コーディネーターという専門職を設けることだ。

 「献眼の意思を持つ人や、ご家族へのインフォームドコンセントや書類上の手続き、アイバンクへの搬送、摘出した角膜の安全性確認や保存、24時間体制での連絡や問い合わせへの対応、角膜提供後のドナーのフォローや啓発活動など、移植に関わるたくさんの業務があります。これらの役割を一人の医師が担うのは不可能だ。どうしても専門のスタッフが必要です」

 求人誌で募集し、28人の応募があった。この中から英語に堪能でボランティアの精神もある28歳の女性を日本初のアイバンクコーディネーターとして採用した。

  「夜中にご遺族の元に行くこともあるし、学会で英語による発表をすることもある。厚生省への書類をそろえるのも大変な作業です。でも、『結婚し、出産をしても、仕事に復帰して一生続けたい、それくらいやりがいのある仕事です』と言ってくれました」



 ◇6年待った患者の怒り

 角膜移植がスムーズに進むようになると、手術の待ち時間も3カ月を切るまでに短縮された。ある日のこと。他の大学から紹介され、2カ月後に坪田氏が角膜移植して目が見えるようになった20歳 の患者が突然、怒り出した。

 「いつでもアイバンクから連絡があってもいいように旅行へも行かず、6年間も病院からの連絡を待っていました。僕の6年間はいったい何だったのですか」

 患者の怒りは、目が見えるようになった喜びとともに、それまでの目の見えない6年間の苦しみから来るものだった。

 独自のアイバンク設立から8年後の2001年7月、市川総合病院の敷地内にアイバンクを備えた日本初の角膜センタービルが完成した。坪田氏が米国留学中に見たアイバンクの夢が実現した瞬間であった。

(ジャーナリスト・中山あゆみ)


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