一流に学ぶ 角膜治療の第一人者―坪田一男氏
(第7回)アイバンクセンター創設=厚生省と粘り強く交渉
1990年、東京歯科大市川総合病院(千葉県)の眼科の助教授に就任すると、坪田氏はアイバンク創設に向けて精力的に動き出した。アメリカのように、システムとして機能するアイバンクが必要と感じた。まずは移植医療をサポートするコーディネーターの育成が必至だった。また、米国のアイバンクからの角膜を輸入するとしても、角膜の保管や安全性の確保のための設備とシステムが必要だ。必要な患者に少しでも早く角膜移植を行うためには、自前のアイバンクが不可欠だった。
◇さまざまな壁を乗り越えて
厚生省(現在の厚生労働省)の定める原則は1都道府県に1アイバンク。千葉県には既にアイバンクがあるので、認可に至る道のりは遠かった。「新しいアイバンクなんて要らない」とあちこちから横やりも入り、そのたびに認可が先送りになった。
「最初はこんなにも理解を得られないものか…と途方にくれました。でも、新しいことをやろうとして誰も反対する人が現れなかったら、それは社会を動かすのに値しない小さなプロジェクトと考えることもできる。そう考えると、気が楽になりました」
一方でサポートしてくれる人々も現れた。「患者さんのためになるなら、やりなさい」。1960年代から献眼運動を推進している社会奉仕団体「ライオンズクラブ」が経済的なバックアップを申し出てくれた。
1993年に病院内に角膜センターを設立。2年後には念願だったアイバンクの開設にこぎ着けた。
「とにかく厚生省に通い続けて僕たちの熱意を伝え続けました。3年がかりで交渉した結果、やっと認可が下りました」
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(2017/08/29 15:33)