一流に学ぶ 心臓カテーテルのトップランナー―三角和雄氏

(第9回)
研修医一本釣り、毎日勧誘
強い抵抗、院内に亀裂も

 ◇「1年限り院長」約束ほごに

 三角氏は診療科を問わず、専門医育成、医師以外の職種育成にも取り組んだ。しかし強い抵抗もあったという。「今までぬるま湯に漬かっていたのに、米国帰りの医師に急にガンガンやられたら、そりゃあ心中穏やかならんわけですよね」。

 10人以上の医師が当時の徳田理事長に「三角を辞めさせなければ、俺たちが辞める」と直訴。すると徳田氏は「じゃあ、お前らが辞めろ」とあっさり言い放ったという。結局、医師4、5人を残し、大半が病院を辞めた。

 院内がぎくしゃくする状態は1年半ほど続いたというから、かなりのストレスになったはずだが、三角氏は「全然、まったく」と言い切る。「もっと大事なことがあります。他の医師がどう言おうと関係ないです。評価は患者さんが決める」。着任2年後には副院長、さらに4年後の46歳のときに院長に就任した。

 「循環器専門医として治療に専念するつもりだったので、病院経営に携わる気持ちは全くなかった。嫌でした。でも1年だけという約束でしたから」。負けず嫌いを自認する三角氏は、不本意な仕事にも全力で取り組んだ。

 医療に専念したかったが、病院の業績が伸びたため1年たっても院長を辞めさせてくれなかった。「約束が違う」と文句を言うと、当時の徳田理事長は「誰か代わりを連れて来い」と退任を認めなかったという。今もって、院長の辞令すら受け取っていないし、近隣や他病院へのあいさつ状も送っていないという。

 「結局、院長会議には出席しなくていいという条件で、仕方なく留任を引き受けました」という三角氏。「やるからには恥ずかしくない結果を残したい」との思いで、その後も病院運営に取り組んだ。患者の数は増え続け、千葉西総合病院は2011年に心臓カテーテル治療の件数で日本一に躍進することになった。(ジャーナリスト・中山あゆみ)

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