一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏

(第8回) 父親再手術も、3年後に悪化=執刀の上司と決裂

 心臓外科医としての歩みを語る上で、欠かせないのが心臓弁膜症を患っていた父親の存在だ。父親は若い時から病弱だったが、天野氏が高校2年の時に病状は目に見えて悪化。東京大付属病院で治療を続けたが、さらに悪化して手術が必要と診断された。同氏が大学2年の時のことで、父親は東大病院の紹介で、心臓手術で良好な成績を上げていた三井記念病院で僧帽(そうぼう)弁(用語1)置換手術を受けた。

 「悪くなった弁をブタの生体弁に交換して、手術は非常にうまくいったのですが、いずれは弁の交換のために再手術が必要と説明を受けました。当時の心臓再手術は時間がかかり術後管理も苦労していたので、その時が来たら、自分で周術期管理ができるようになりたいと考えていました」

 生体弁の寿命は約10年とされた。しかし、7年ほど経過した頃に検査で劣化が判明。父親は尿酸値や血糖値が高く、動脈硬化が進んで弁の動きが悪くなりやすいタイプだったという。

 そして1987年、人工心臓弁(用語2)を交換する再手術を、天野氏が2年前から勤務していた亀田総合病院で行うことを決めた。最初の手術で執刀した三井記念病院の医師は高齢になり、第一線からすでに退いていたこともあった。

医師になり4年目の天野氏(1988年)
 天野氏は32歳、医師になって4年目。心臓血管外科の本格的な修行を開始してからまだ2年目で、自ら手術できるほどの経験はなかった。執刀は上司の心臓血管外科部長に頼み、自身は第1助手として手術に加わった。

 「上司は40代半ば。三井記念病院の先生から『彼なら十分できるんじゃないか』と太鼓判も押していただいてました。手術は無事に終わったように見えたんです」

 ところが、手術後3年で父親の病状は再び悪化した。亀田総合病院に入院して検査した結果、機械弁の縫合不全で血液が逆流していることが判明。3度目の手術が必要だった。

一流に学ぶ 天皇陛下の執刀医―天野篤氏